沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第6講 稲置街道から御成道へ 第1回「粟稗の貧しくもあらず―解脱寺」

粟稗の貧しくもあらず―解脱寺

解脱寺。愛知県名古屋市北区清水2丁目12-2

解脱寺。愛知県名古屋市北区清水2丁目12-2

名古屋の都心、栄町に白林寺という臨済宗の閑静なたたづまいの寺がある。犬山城主成瀬家代々の菩提所である。

江戸時代、この白林寺の二代目住職全用和尚と成瀬家二代目当主の正虎との間で悶着が起こるという出来事があった。成瀬家で不祥事を起こした家臣が、白林寺にかけこみ全用和尚に救いを求めたのである。全用和尚は正虎からの家臣引き渡しの要求に頑として応じなかった。正虎は全用和尚を騙すようなかたちで、家臣を手討ちにした。全用和尚は怒って、故郷の上州に帰ってしまった。全用和尚の激怒にふれて、正虎は家臣を手討ちにしたことを後悔し、その菩提を弔うために、荒れはてた薬師堂を再建し、解脱寺と名づけて、白林寺の末寺とした。明暦三年(一六五七)のことである。

「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」と刻まれた芭蕉句碑

「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」と刻まれた芭蕉句碑

時うつり、解脱寺に代々、封鎖されている本尊があった。五劫思(ごこうし)惟(い)(阿弥陀仏が誓願を成就するために五劫の長い間、思いをこらしたこと)の弥陀像である。本尊が封鎖されている扉を開くと、たちまちに盲目になると言い伝えられ、長く秘仏になっていた。白林寺から解脱寺へ移ってきた何代目かの住職が、この話を聞いて「仏像は人に拝ませて、始めて利益があるものである。扉を閉じて、人に見せない像はあってはならない。これを開いて盲目となる道理はない」と言って、扉を開いた。目もくらやむ程の弥陀像であったが、扉を開いて盲目になることはなかった。

解脱寺が再建される以前の薬師堂を貞享五年(一六八八)七月二〇日、松尾芭蕉が訪れている。薬師堂の主人、長虹(ちょうこう)を名古屋の俳人、荷兮と尋ね、歌仙を巻いた。

粟稗にとぼしくもあらず草の庵

芭蕉が詠んだ発句である。粟稗の豊かな実りが眺められるこの草庵は貧しい風情ではない、静かないい住まいであるという意の句である。句碑が寺の南側の庭に建っている。

境内には雨橘塚もある。碑には

ほたるにもならずいつまで蚊遣哉

という句が刻まれていて、雨橘は太一庵快台の門下で杉村で塗師をしていた。

続いても落ぬ木の実や後の月

という岡本柳南の昭和の初期につくられた句碑も境内には建てられている。

  • 右から雨橘句碑、岡本柳南句碑、芭蕉句碑

    右から雨橘句碑、岡本柳南句碑、芭蕉句碑

  • 「芭蕉歌仙興行の地」教育委員会解説板

    「芭蕉歌仙興行の地」教育委員会解説板

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