桧さわらや杉之町―高岳院
杉の町は俗称で、公式の町号ではなく筋の名前である。 江戸時代、杉の町筋は、中橋から東へ緩やかな坂を上り、御園町筋までは、武家の蔵屋敷が続いていた。『尾張名陽図会』によれば、御園町筋より本町筋までは、万屋町の町域を作っていた。(『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』には万屋町は「御園町より東、長者町迄の間をいふ」とある。)
本町筋から東へ久屋町筋までは、独立の町ではなく、それぞれ南北道路の支配を受けていた。 久屋町筋を越えるとまた武家屋敷が続き、なだらかな斜面を下って高岳院の門前に出る。 道筋は全長約半里にも達する、長い通りであった。(『尾張名陽図会』は、杉の町筋を「中橋の東の詰より御園町筋迄をいふ」としている。)
杉の町の名前の由来は『尾張名陽図会』には、
往古の正方寺町より東は山林にして杉の大木茂りし所也、其跡に出来し故、杉の町と云。
と記している。一説には東端に近い富士権現社の境内に老杉が多かったことにちなむともいう(富士神社史) 杉の町通りの中心、万屋町について『尾張名陽図会』は、
清須よりここにうつりし年月詳かならず。また清須の何といふ所よりうつりしにや、しれず。引きうつりし頃の名は杉の町二丁目と呼びたりしが、その後寛文元年(一六六一)の頃松屋町と改む。しかるに故ありて、宝永五年(一七〇八)に今の名とす。商人多き町にして万の物を商ふといふ意を以て万屋町と名づけたりとぞ。
とある。寛文元年に、松屋町と改称されたのは、町内にある金剛寺の門前に古松がそびえていた事にちなむ。 宝永五年に「故ありて」万屋町と改称したのは、この年、松姫が将軍綱吉の養女となったので、松の字の町名は恐れ多いという理由である。
名古屋城を築くにあたり加藤清正は、この町に役所を置いた。清正が肥後の国に帰った後は、佐々成政の子孫が代々居を天保年間(一八三〇~一八四四)までその跡地に構えていた。 『金鱗九十九之塵』に「今万屋町は古手物商家多し」と記されているように、昔から杉ノ町筋には、古着屋が軒を並べていた。
昭和十一年(一九三六)頃には、五十軒以上の古着屋が店を出し、新品を売る店も二、三十軒はあったという。通りには、質流れとなった古着の匂いが漂っていた。その古着を求め、近郷から農民が娘を連れて通りを歩く姿が見うけられた。
杉の町通りを歩いて行く、一軒の古着屋も見あたらない。それもそのはず、何も古着を買わなくても、信じられないような安い値段で洋服を売るディスカウント・ショップが何軒も出来たからだ。