ちらりちらりと桜町―桜天神社
杉の町筋の南にあたる東西道路が桜の町筋、昭和十一年(一九三六)十二月、名古屋駅の新築移転に伴って、東桜町から駅に通じる桜通が新設された。 狭い桜の町筋は一変し近代的道路にと変貌した。桜通りの両側には高層ビルが立ち並んだ。公孫樹並木の下を、今日もオフィスに通う若い人の姿がみられる。
江戸時代の桜の町筋は、堀川東岸の木挽町筋に発し、碁盤割の中心を東進し、久屋町筋で終わる道筋であった。その桜の町筋の本町より西、長島町までの間が小桜町。 小桜町の町名由来を『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は次のように記している。
往時慶長年中、上長者町と清須長者町より一所に当地へ引越来り、則長者町四丁目と申来候処、貞享三年丙寅(一六八六)七月より町内に、桜天神有之由緒を以、小桜町と改正せしとかや。今世俗に是を云誇りて専ら桜の町と呼。
織田信長の父親、信秀は熱心な天神様の信者だった。京都の北野天満宮に参拝した、その夜の夢の中に菅公が現れ「お前は熱心に信仰してくれるから私が生前に彫刻した像をあげよう。尾張に帰り、その像を祭ったら子孫が繁栄するように祈ってあげよう」と言われた。翌日、帰国するにあたって知人を尋ねた。知人は「昨日、夢の中に菅公が姿を現わされ、私の信ずる人が、今日、お前の所にやってくる、その人にお前が持っている私の像を差しあげなさい、と言われた」と語った。 信秀は、昨夜の夢との符合に驚き、菅公の尊像を押頂いて名古屋に持ち帰り、朝夕祈っていた。
天文七年(一五三八)万松寺を建立したさい、山門の左に尊像を安置する堂を建てた。 慶長の遷府の時、万松寺は町づくりの支障になるという理由で大須の地に移った。 桜町に残った菅公の像を祭った祠が(万松寺に多く植えられていた桜の樹にちなみ)、桜天神社と呼ばれるようになった。
万治三年(一六六〇)正月十四日の大火により、桜の樹は全て焼失してしまった。その焼跡に、桜風呂という風呂屋ができて、たいそう繁昌した。主人は宗心と言って、能書家であった。風呂屋の家業に追われているうちに、書道家としては大成することができなかった。桜風呂がつぶれ、その跡には桜屋という屋号の菓子屋が店を出したが、その店もいつしか姿を消してしまった。
桜風呂が出来た翌年の万治四年(一六六一)、桜天満宮の境内に、尾州藩の釜役、水野太郎左衛門が作った、時の鐘がつるされた。 「此声音誠に国中を貫き響く妙なりとぞ」と言われるほど妙なる響きで、名古屋の町に時を告げていた。
明治六年(一八七三)には、この時の鐘も廃され、翌年には売り払われ、この地から姿を消してしまった。 小桜町という町名も、明治四年(一七七一)天神社に由来をとり、菅原町へと変更された。 今、往時の桜町をしのぶものは、桜天神社だけかも知れない。