沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第3講 七墓巡礼歌のみち 第6回「人馬つめおく伝馬町―札の辻」

人馬つめおく伝馬町―札の辻

札の辻 - 尾張名所図会(イメージ着色)

札の辻 - 尾張名所図会(イメージ着色)

堀川より東へ七間町までと、七間町より東へ北片側伊勢町までの間が伝馬町の区域である。 町名の由来について『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』は次のように記している。

当町を伝馬町と号することは、清須越の町名にて、且清須の内に西市場村・伊勢町村と申両村の田面に、伝馬町筋と称す字名今にあり。就中此地へ引越来りし年月は不詳。御伝馬役を相勤る故に伝馬町と云伝ふ云々。

清須越の町で、清須当時から伝馬役を勤めていたので、伝馬町と呼ばれたのが町名の由来だ。 伝馬町と呼ばれる前は、広井八幡宮の山林で、名古屋城天守閣の瓦を、この地で焼いたので瓦町と呼ばれていた。町ができあがるにつれ、瓦師が名古屋の町の東端に移住したので、瓦町の名は消えて、伝馬町と町名が変わったのである。

那古野山の峠が札の辻のほとりであったと『尾張名陽図会』は伝えている。

古しへは那古野山の峠とて高き峰なりしを、御城御造営の時、加藤清正肥後の国の人夫をかり集て峰を削り、其土をもて谷渓を埋み平地となす。世の人其功を挙て其ころ里童の流行唄に「音に聞えし那古屋の山をふみやならした肥後の衆」がと唄ひしと也。

現在の伝馬町通本町の交差点. 奥に向かって伸びる道が伝馬町通り. 写真中央にはJRセントラルタワーズが見える

現在の伝馬町通本町の交差点. 奥に向かって伸びる道が伝馬町通り. 写真中央にはJRセントラルタワーズが見える

那古野山の峠は名古屋北部の丘をさすとか、門前町清寿院の後ろにあった小山をさすとかの説もある。 人家もまれな丘陵地帯の那古野山が、清正の手によって、峰は削られ、その土で谷間が埋められて平地となる。平地となり、遷府されるとともに、またたく間に伝馬町は、各街道の集まる繁盛の地となった。

慶長十八年(一六一三)には人馬継立を取扱う事務所である問屋場が出来あがった。 伝馬町から美濃路を通り、清須までは二里半、熱田までは一里半の行程であった。問屋場から岡崎街道の平針までは二里の行程、木曽街道の小牧までは三里、善光寺道の勝川までは二里の行程であった。 伝馬町から清須までの本馬の借賃は一匹九十文、軽尻馬は一匹五八文であった。人足の借賃は四六文であった。伝馬町から熱田までは本馬の借賃は六九文、軽尻馬は四六文、人足の借賃は三五文であった。

正徳元年(一七一一)には、制札場が設けられた。制札場は五尺の竹垣をめぐらした中に地上一丈の高札が建てられた。高札には、御定として、「親子兄弟夫婦を始め、諸親類したしく、下人等に至迄、是を憐むべし」のように、人としてのあるべき姿を述べたものや「毒薬并似せ薬種売買之事禁制す。もし違犯の者あらば、其罪重かるべし」のように、禁止事項をかかげたものが建てられた。 しかし、いかにありがたい高札が立てられても、字の読めない者にはただの立札にすぎなかった。

   この辻乃掟の札はなまよみの

      かひの黒ごまつなぐ馬士かな

と狂歌に詠まれるほど、字の読めない馬方が馬をつないでいく立札となってしまった。

天保十一年(一八四〇)以来、伝馬町で商売をしている店がある。お茶の升半である。 西春日井郡枇杷島の庄屋升屋彦八の三男、半三郎が、志を立て名古屋に出てきたが、何をしてもうまくいかない。八卦に見てもらったところ“青いものがいい”という占いで茶屋を始めたら大当たり、お茶は升半といわれる程の店となり、今に至っている。