出船入船桑名町―青木宅
『那古野府城誌』には、
桑名町のことを 役銀二貫二四匁、桑名町通り京町より杉ノ町までをいふ。慶長年中清須北市場より此に遷す。仍て名とす。井深三丈余、水清、土赤土砂ねば交り。 御祭礼 湯取神子 寛永元年に囃子物初る。万治元年換る
とある。
桑名町は、南北道路桑名町筋の北端に位置し、東西道路京町筋と杉の町筋との間の二丁の町並みをいう。慶長年間(一五一九~一六一一)に清須の北市場から遷ってきた清須越の町だ。隣接する長島町と同じく、もともとは伊勢国から清須に転じた町である。井戸水は清く、水深は三丈余(九メートル余)もある。
那古野神社を氏神とし、四月の東照宮の名古屋まつりには湯取神子のからくりを出した。 この人形は小細工師の二郎八の作である。『仮名詩御祭礼』に詠まれるほどのどかなからくり人形であった。
湯取神子は、
人の心もいさぬ御神楽 はやしについてあがる湯の花
をかしみもある笛吹のちやり 頭人顔な跡の爺さま
桑名町は、清冽な井戸水の出ることで有名であった。清らかな井戸水の出る家の門には、井の札が張ってあった。 その井の札が桑名町通りの青木氏の宅の玄関にはつい最近まで張ってあった。通りを歩いて行くと青木氏宅の黒塗りの堅固な門が、桑名町の古い歴史を表しているかのようで、すぐに目につく。門をながめていると、紙をはがした跡が残っている。かすかに井の文字がみえる。 威容を誇っているのは、門ばかりではない事務所の裏にそびえ立つ洋館も、昭和初期に建てられたものだ。昭和八年に建築されたもので、屋久杉などを使った贅を尽くしたものだ。
駐車場にまわり、洋館を眺めていると、青木夫人が出ていらっしゃった。話を伺うと門と洋館の母屋と台所が、昭和八年当時からの建物であるとのことであった。 昭和三十四年の桑名町通線の拡張工事のために、上中通と桑名町通の交差する東北角にあった建物を現在地に移転させた。間口十二間(約二十二メートル)から四間(約七メートル)に狭められたため、玄関・母屋・台所をやむなく縦に並べて建て直した。
「私の家の先祖は清須越の商人で、江川町で薬種商を手広く行っていました。分家して、この地で同じ商売をするようになりました。私の父親は五男で、青木五と言いました。十人兄弟の五番目なので、そのように名づけられたのです。六男は、六というように名づけられ。八番目は女の子だったので八子とつけられました。末っ子の十男は、十郎と名づけられました。この方がいちばん出世をなさって、昭和天皇にチェロなどを教えなさいました。」 桑名町は、青木家のような富裕な商家が建ち並んでいた。今、その名残りをとどめているのは、青木氏宅だけである。