干支の神様 羊神社
十二年に一度だけ大勢の初詣客を集める神社があります。辻町にある羊神社です。 ふだんはひと気のない狭い神社に、人があふれるのは羊神社という珍しい名前からでしょう。 なぜ、羊神社という名前がついたのか。
天保十二年の辻村村絵図を見てみます。 羊神社と矢田川との間は新田になっています。すぐ北は子(ね)新田、その東は戌(いぬ)新田、その西は亥(い)新田です。子、戌、亥とあれば未(ひつじ)も新田の名前からとったものかとおもいましたか、えとの名前をつけた新田は三つしか見あたりません。 天保十二年の村絵図では、羊神社は神明宮となっていますから、新田からつけられた名前ではないようです。
『名古屋の史跡と文化財』には羊神社を次のように説明しています。
天照大神と火之迦具土神を祭る延喜式内である。『本国帳』には、従三位羊天神とあり、棟札に慶長十八年(一六一三)八月五日とある。
延喜式内とは、平安時代の醍醐天皇の時代(九〇一~九二三)に建てられた神社ということです。棟札には建築された年月日を記しますから、慶長十八年にこの神社は再建されています。 天照大神は日の神と仰がれる伊勢の神宮に祭られている神様、火之迦具土神は火ぶせの神様です。
羊神社のある辻町も羊神社の羊に由来しています。町名も火辻(ひつじ)としましたが、火をきらって辻になったといわれます。 火ぶせの神様、羊神社のためか、太平洋戦争も、この辻町一帯は焼けずにすみました。
群馬県にも羊神社があるそうです。 渡来系の羊氏族の祖神を祭ったので羊神社と呼ぶという説もあります。 中日新聞の一月五日の記事は、次のように紹介しています。
羊太夫は、吉井町(群馬県)に伝割る伝説によると、稲妻のような速さで走る家来とともに、毎日、奈良の都へ通勤した。いたずら心から、羊太夫が家来の肩にはえている翼を抜いたところ、走ることができなくなった。朝廷は、通勤しなくなった羊太夫が悪事をたくらんでいると思い、大軍を差し向けて攻め滅ぼしたが、その後、無実が明らかになり丁重に弔ったという。 一方、北区の羊神社の由来によると、吉井町の羊太夫が、都へのぼる途中に立ち寄った屋敷が辻町にあり、羊太夫が火の神を祭ったことから「羊神社」と呼ばれるようになった。
また羊神社の起源の伝承として、次のような『西春日井郡誌』の説もあります。
昔、三国伝来の狐がいた。この狐、時の帝を苦しめたので、重臣たちは相談の上、八百万の神々を集め、平癒の祈祷をされた。この時、狐と一緒に未の方向〔南南西〕にあった御幣が舞い上がって後を追った。これは、この地の神様であった。こうした理由で、この神社を羊神社という。
地図
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