沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第5講 干支の神様『羊神社』とその界隈 第3回「安栄寺の六地蔵」

安栄寺の六地蔵

安栄寺の山門(愛知県名古屋市北区志賀町1丁目67)

安栄寺の山門(愛知県名古屋市北区志賀町1丁目67)

墓場の片すみに立っている六地蔵をよくみかけます。
仏教の考え方では、人間は死ぬと六道(ろくどう)のいずれかに、生前の行いによって、行くのだそうです。生きている時、悪い行ないをした人は、地獄におちていく人がいます。やせ細って、のどが針のあなのようで、食べたり飲んだりすることのできない餓鬼道におちていく人がいます。鳥やけだものに姿がかわる畜生道におちていく人、たえず闘いや争いをくりかえす修羅道におちていく人もいます。
反対によい行いをした人は、次に生まれてくる時も人間になることができます。天人や天使の住む天国にのぼることのできる人もいます。
六地蔵は、このような六道思想によって生まれたものです。一般的に六地蔵は、次のようによばれています。地獄を表す檀陀地蔵、餓鬼道を表す宝珠地蔵、畜生道を表す宝印地蔵、阿修羅道を表す持地地蔵、人間を表す除盖障(よがいしょう)地蔵、天道を表す日光菩薩地蔵です。

室町時代の六地蔵は写真右側の小祠に安置されている

室町時代の六地蔵は写真右側の小祠に安置されている

安栄寺には二体の六地蔵が祭られています。室町時代に立てられたものと江戸時代に立てられたものです。
室町時代の六地蔵は、硬質砂岩の板碑(いたび)〔平板な石に地蔵を刻んだもの〕に、上下二段に三体ずつの地蔵さまが浮き彫りにされています。

像の左右に、「□□□□大永七年十月日」「尾州山田庄志賀郷」の文字が刻まれています。
大永七年(一五二七)に志賀の里の住人が寄進したものでしょう。
室町時代は、戦争にあけくれした時代でした。いくさで亡くなっていく人が大勢いました。戦いに出かけない人々は、貧しさのなかであえいでいました。貧しさのなかで、病気で亡くなっていく人がいました。地獄のような生活であったと思います。

小祠の中をのぞき込むと上下2段に3体ずつ地蔵が並んだ石像がある

小祠の中をのぞき込むと上下2段に3体ずつ地蔵が並んだ石像がある

どのような思いで、志賀の里の人が、この六地蔵を立てたかはわかりません。
もともと、この六地蔵は志賀公園の東北隅の墓地にあったものを安栄寺に移したものです。
この世では、けっして幸福であったとは思わない死者を、六地蔵によって、六道のよい道に入っていくことを祈って立てたものではないでしょうか。

安栄寺は、慶長十九年(一六一四)に嘉屋首座が建立した万松寺の末寺の曹洞宗の寺です。

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