わが子の帰り待つ 日待地蔵
母親は大ぜいの人に、五目飯を茶わんにいっぱい盛ってくばり始めました。十四歳になったばかりの兼継は、緊張して顔をまっ赤にしながら、五目飯を食べています。兼継のかたわらで、にこにこ笑いながら夫の重継は、わが子の顔をながめています。大ぜいの人に囲まれながら、兼継の祖父、山田郡安食の荘の荘司である山田次郎重忠は、大将らしく一座の人々を、にこやかな顔でみつめています。京都の後鳥羽上皇から宣旨(天皇の命令を伝える文書)が重忠のもとに届いたのは、承久三年(一二二一)の年が明けてすぐのことでした。承久元年(一二一九)一月二十七日、鶴岡八幡宮で、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が暗殺されました。鎌倉幕府に不満を持っていた上皇が、この機会をのがさぬはずがありません。幕府を倒すために兵をひきつれ、京都の上皇のもとにはせ参じよという宣旨を持って、使者が山田の庄にきてから、あわただしい日々が過ぎました。重継が、子供も連れていくと言った日から、母親は眠れぬ日々が続きました。
重忠の乗る馬の後を、兼継が馬に乗って、母に手をふって出かけました。兼継の姿が消えるまで、母親は門の前でいつまでも見送っていました。母親は、門のかたわらに祭ってあるお地蔵さまに、兼継が無事に帰ってくるようにと手をあわせ一心に祈りました。
幕府の大軍が、京都をめざしてのぼっているといううわさが山田の庄に入ってきました。京都からは、重忠が上皇の信頼が厚く、上皇方の中心となっているといううわさも入ってきました。重継の母親は、毎日、毎日、お地蔵さまの前に五目飯をそなえ、息子が無事に帰ってくることを祈っていました。
重忠たちは承久三年六月三日に幕府軍を討つために京都を出発しました。 五日の夜から木曽川をはさんで両軍の戦いが始まりました。重忠の軍は幕府方の大軍を墨股川(すのまたかわ)でむかえ討って戦いました。上皇方は幕府方に攻められ逃走しましたが、重忠の軍はふみとどまり、わずか九十騎で勇敢に戦いました。 上皇方は追いつめられ、京都の大堰川で最後の戦いをしました。重忠は、重継が敵をひき寄せ戦っている間に自害しました。父が自害するのを見とどけると力をつかいはたした重継は斬られてしまいました。
母親のもとに夫の討ち死に、義父の自害、そして、母は帰りを待ちつづけていた兼継が越後の国へ流されたという知らせが届きました。母親は兼継が越後に流されてからも、山田の庄に一日も早くもどってくることができるようにお地蔵さまに祈りつづけました。 人々は、いつかそのお地蔵さまを日待地蔵とよぶようになりました。
明治になってから、子供を持つ母親の気持ちが転じて、日待地蔵は子供が授かるお地蔵さまとなりました。 日待地蔵は北区安井町の清学寺の門前に祭ってあります。
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