概略
今川 義元は、、「海道一の弓取り」の異名を持つ、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。所領は、駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで及んでいた。永禄3年(1560年)5月、2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。迎え撃つ清州城の織田家中は、主戦派と籠城派に分かれていた。
信長時代の清州城天守閣の位置は、ほぼ現在の模擬天守が建っている場所と推定される。天正地震(1586年1月)のあと、信長の次男、織田信雄が城主となり大幅に城郭が拡張された。
大高城は、鳴海城とともに織田方の城であったが、鳴海城主山口教継の調略で、今川方に寝返っていた。当時は北側がすぐ海(伊勢湾)となっており、尾張の制海権をめぐり争いが絶えない地域であった。織田信長は、鳴海城との行き来を遮断するため、鷲津砦・丸根砦を築き兵を配置した。桶狭間の戦い前夜の永禄3年(1560年)、5月18日、義元の命令を受け、松平元康(のちの家康)は食料不足に悩まされていた大高城に、 兵糧を運びいれることに成功した。5月19日明け方、松平元康、朝比奈泰朝は、鷲津砦、丸根砦の攻撃を開始。
信長公記によれば、この報を受けた信長は、幸若舞『敦盛』を舞った後主従6騎で出陣、熱田へ向かう。 後続部隊も萱津と小田井経由、二手に分かれて進軍を開始した。萱津経由の部隊は、旧鎌倉街道を南下、合流地の古渡城へ向かう。小田井経由の部隊は、小田井の渡しを渡河し那古野城経由で古渡城へ向かう。合流した部隊は、総勢1000人の軍団になり熱田へ向かう。
午前8時ころ鷲津・丸根砦陥落。大高方面から立ちのぼる煙を見て、信長は丹下砦に向けて熱田を出発する。領内各所から兵を集めながら丹下砦に向かう。信長は、今川方の鳴海城を囲むように、丹下、善照寺、中島砦を置いた。丹下砦で休息のあと、善照寺砦に全軍(2000~3000人)を集結した。善照寺砦からは、鷲津・丸根砦が一望できる。信長は、家老は、反対を押し切って低地にある中島砦に進軍。
迂回奇襲説
桶狭間合戦については、明治31年に、旧陸軍参謀本部が唱えた、迂回奇襲説が、通説として信じられてきた。田楽狭間、桶狭間古戦場伝説地で休憩し、油断していた今川本陣を、織田軍が突然襲った 典型的な、奇襲戦とされてきた。しかし現在では、迂回奇襲説は、間違いとされている。
時間差二段階攻撃説
沓掛城は、織田信長の父、信秀の、配下にあったが、信秀が没すると、鳴海城とともに今川義元に寝返った。5月18日、義元が沓掛城に到着し、軍議を行い戦いに望んだ。5月19日午前9時頃、先発部隊生山に向け出発。続いて、今川義元本隊5000が、大高城に向けて沓掛城を出陣。佐々政次・千秋季忠率いる300名は、善照寺砦で信長より軍旗を受け取り、今川軍の先頭に襲いかかる。行軍を阻止された義元本隊は、田楽狭間付近にあり主力部隊を先頭に出す。
信長も中島砦から太子ガ根へ向かう。西方より黒雲が湧き起り暴風雨となり、視界が遮られる。信長軍、太子ガ根北谷に到着・待機していると、簗田政綱より義元の動向が知らされる。午後1時半ころ、雨が止み天候が回復。兵が分散し手薄になった義元本陣では、佐々政次・千秋四郎の首級が届けられ、義元は勝利を確信して、祝宴を開いていた。雨が止むのを待って、信長軍は今川本陣に向け出撃。後方部隊も西側の山を越え一気に突撃を開始した。大混乱の中、今川義元は討ち取られた。
桶狭間 「田楽坪戦場説」
今川義元本隊、大高城に向けて沓掛城を出発。桶狭間山に本陣を構える。今川義元は信長軍の動向を監視するため、高根山、幕山、巻山に前線基地を置き、松井宗信、井伊直盛に守備させた。佐々政次・千秋季忠隊300名は、先陣を切って攻撃を仕掛け敗退。二人の首級が義元本陣に送られる。西方より黒雲が湧き起り暴風雨となり、視界が遮られる。突然の雷雨を好機として、信長本体は中島砦を出発した。大雨の中、敵の目を逃れて、今川本陣近くの釜ヶ谷に到着。雨のあがるのを待った。午後1時半ころ、雨が止み天候が回復。勝利を確信して、油断していた義元軍に襲い掛かる。義元は、大高城に逃走しようと桶狭間山本陣から西に向けて下山。桶狭間古戦場公園あたりで討ち取られる。
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取材協力(ドローン撮影含む)
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