木曽川は、長野県から岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぐ日本を代表する河川。
木曽川は、長野県の木祖村にある鉢盛山の南側が源流。この山の南方の奥木曽湖に流れこみ、味噌川ダムの建設により人工的に作られた。
木祖村は人口3000人ほどの村だが、木曽川の源流のある場所として知られており、漆器製品などが特産品。
木曽福島(木曽町)は江戸時代(1603-1868)に中山道の宿場町として繁栄した。鎌倉幕府(1185-1333)の創設に貢献した木曽義仲は、この地で生誕した。征夷大将軍に任じられたが、後白河法皇と争いそれが原因で 兄源頼朝により滅ぼされた。
上松町は木曽町の南にあり、町の中央を木曽川が縦断している。巨大な花崗岩が木曽川の激流に刻まれて、寝覚の床が誕生した。上流のダム建設により、水位が下がり現在の姿になった。
大桑村は上松町の下流にある村。中山道の二つの宿場、須原宿と野尻宿があり、野尻宿は、防御のため町並みが曲がりくねっている。
桃助橋は、読書発電所(1923年完成)の建設資材を運ぶため建設された。福沢桃介は日本の水力発電に貢献した人物、橋の名は彼に由来している。
中津川は木曽川に流れ込む中津川沿いに位置する中山道の宿場町として発展した。栗きんとん発祥の地と言われている。
苗木城は木曽川沿いの山頂にある遠山家の山城、現在は石垣のみが残っている。
福沢桃介は大正時代(1912-1926)に大井ダム建設を建設した。その副産物として、恵那峡は人工湖として誕生した。四季を通じて美しい景観を楽しめる観光地となっている。
丸山ダムは、高さ約100メートルの多目的ダム。戦後の大規模ダム工事の先駆けとして建設された。丸山ダムの下流にある旧八百津発電所は1911年に木曽川水系初の本格的な発電所として建稼動を開始した。このあたりには綱場があり、木曽の山から伐り出された材木は初めて筏に組まれた。
兼山ダム湖には愛知用水取水口が設置され、知多半島に送水している。
新村湊は木曽川を利用した水運の要として繁栄したが、鉄道の発達により衰退した。 今渡ダムは、木曽川の最も下流に位置する。このダムの手前で、飛騨川が木曽川に合流している。
中津川市から山の中を通っていた中山道は、太田宿(美濃加茂市)から木曽川の北に沿って進む。美濃加茂市から犬山市までの約 12kmの峡谷は日本ラインと呼ばれている。景観がドイツのライン峡谷と似ているので、この名前がつけられた。
犬山は、木曽川が濃尾平野に注ぐ場所にあった。長年にわたり、木曽川の土砂が堆積して犬山扇状地が形成された。国宝に指定されている犬山城は織田信康(織田信長の叔父)により、1537年に建設された現存する日本最古の木造天守閣として多くの観光客を集めている。
明治時代(1868-1912)まで、犬山下流から河口まで、複数の河川が入り組んで伊勢湾に注いでいた。
木曽川の西にあたる、長良川や揖斐川周辺の地域は低地にあるため、洪水により何度も被害を受けた。尾張藩は災害を防ぐ対策に迫られた。1753年、徳川幕府は薩摩藩に河川改修工事を命じ、約1年半を費やし、この難工事は完成した。しかし、薩摩藩は工事に費やした巨額の出費と、約90人にもおよぶ犠牲者に大きなダメージを受けた。
工事の総奉行平田靭負は、この責任をとって切腹して果てた。工事で亡くなった多くの薩摩義士がこの地に埋葬されている。
明治時代の中頃から、ヨハネス・デ・レーケによって木曽川、長良川、揖斐川の3河川を分離する工事がおこなわれ、この工事により水害の被害は軽減した。