市澤泰峰学芸員 プロフィール
昭和56年 長野県に生まれる
平成17年 同志社大学文学部文化史学科卒業
平成19年 京都大学大学院人間・環境学研究科共生文明学専攻修士課程修了
平成19年 名古屋市に学芸員として採用され、教育委員会で市内の埋蔵文化財調査等を担当。平成24年度から名古屋城総合事務所に配属。
映像の解説の要約
名勝二之丸庭園
頭についている名勝という呼び方ですが、これは国の文化庁が風致景観が優れている、眺めた時の 景色が優れている場所を指定しています。愛知県下では唯一の名勝になっています。
名古屋城の初代の藩主である徳川義直が造った庭園になります。そのあと十代の藩主の徳川斉朝(なりとも) の時期に大きく造りかえられます。いま残されている庭園は、十代の藩主の徳川斉朝が造りかえたときの姿をベースとして残されています。
明治になりますと陸軍が入ってきます(明治6年名古屋鎮台設置)。権現山の東半分を削り、平らにして 兵舎が何棟も建てられて昭和20年の終戦まで続きました。終戦後は名古屋大学が兵舎を利用してキャンパスとか学生寮として使用しました。昭和38年に東山に新しいキャンパスが完成し移転しました。兵舎は空家のまま放置されました。昭和50年に名古屋市が大蔵省(現在の財務省)から無償貸与を受け、残っていた兵舎を解体整備して現在の姿になりました。
本来の庭園の姿が失われてしまった部分ですとか、あと木が大きくなりすぎて景色が変わってきている部分が出てきています。このため江戸時代の庭園の姿を修復整備してゆきたいということで、修復整備事業を現在、名古屋城は進めています。
栄螺山(さざえやま)
金沢の兼六園の栄螺山(さざえやま)と一緒で、巻貝のサザエのように廻路(えんろ)が巻きながら頂上へ 昇ってゆくといった山だったようです。明治のころに何度も道を付け替えたりしているようで、てっぺんには忠霊碑を建てていたようです。
池の発掘
兵舎が建てられていたころは、埋められていましたが、昭和50年から53年にかけて発掘調査を行ったときに確認された池の跡(権現山の南側)です。今回の発掘調査でその続きと思われる池の跡が北側から見つかりました。
兵舎の基礎部分の発掘調査
権現山を削り、平坦にして作った兵舎の基礎部分です。もともと名古屋城の兵舎の整備は、明治6年くらいから進んでいます。今回の確認できた兵舎は明治9年に中隊が増設されることによって増築された建物です。レンガを見ますと名古屋の会社が焼いたレンガを使用しており、その会社が設立されたのが明治16年になりますので、明治16年以降の建物であることは間違い無いので、中隊の増設と建物の 建築が、同時期であると思われます。
兵舎の東側の発掘調査
兵舎の東側の部分には、江戸時代の土が残されており、お庭の廻路の飛び石を抜いたような穴とか、柱穴などが見つかっています。注水の枡も見つかっており、石自体はすごく丁寧な加工がされてますので、江戸時代に作られた可能性が高いと思われます、只その後、土管等が入れられていますので、 明治になって手を入れて使ったのではないかと考えています。
発掘・整備の今後
現在は、前半部分の発掘を行っていますので、今後はこの部分を埋め直し北側の発掘調査を行ってゆく 予定です。今後は権現山を本来の姿に戻す作業を進めてゆきたいと思っています。