吉田隆之の「あいちトリエンナーレこぼれ話」第1回「長者町に根付いたアート山車」

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はじめまして。この度ご縁があり、「あいちトリエンナーレ」をテーマに1月ごとに計4回連載をしていきます。拙著「トリエンナーレはなにをめざすのか:都市型芸術祭の意義と展望」では紹介しきれないこぼれ話などもお話しできればとも思っています。

まず、1回目は私が職務として関わったあいちトリエンナーレ2010の開催経緯と、とくにアート界では全国の伝説ともなったKOSUGE1-16の山車にまつわる話を振り返ります。続いて、2回目は私が博士号を取得した経緯をご紹介します。そして、3回目は、あいちトリエンナーレ2013について、私の一市民としての関わりを中心にお話しします。最後に、4回目は小さなコミュニティが長者町地区内外で続々と生まれている状況を踏まえ、あいちトリエンナーレの今後の展望・ビジョンを提示したいと考えています。 よろしくお願いします。

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なぜあいちトリエンナーレは開催されたのか

あいちトリエンナーレ2010が2010年8月から10月に開催されました。入場者数は当初の想定の30万人の約2倍の57万人となりました。しかし、開催当初はトリエンナーレという言葉も知られておらず、名古屋で現代アートの展覧会をやっても1万人しか入らないことから、10万人という数字を掲げることすら憚れる雰囲気でした。そうした状況にもかかわらず、なぜあいちトリエンナーレは開催されたのでしょうか。

あいちトリエンナーレのメイン会場となった愛知芸術文化センター

あいちトリエンナーレのメイン会場となった愛知芸術文化センター

主な理由は、愛知芸術文化センターでした。総工事費約628.1億円で1992年竣工し、それ以降愛知県の文化行政の象徴でしたが、1997年アジアの通貨危機をきっかけに愛知県財政が悪化し、お荷物となっていきます。

ところが、状況を変えたのが愛知万博の成功と中部国際空港の開港でした。折しもトヨタを始めとする自動車産業の好調で愛知県の財政が上向く状況が生まれます。愛知万博後の地域づくりの議論のなかで、愛知芸術文化センターの活用が焦点の一つになります。

2006年12月有識者会議がビエンナーレ開催を提言します。この提言の2ヶ月後、愛知県初のマニュフェスト知事選が行われました。少人数学級など教育実績がある石田芳弘(元犬山市長)候補は、教育・文化に力を入れることをアピールし「アジアの女性映画の聖地づくり」を公約としました。これに対して、ビエンナーレ開催を掲げたのが美術好きの神田真秋前知事です。結果は、僅差で神田候補が当選します。

かりに石田候補が勝利していたら、アジアの女性映画の聖地づくりがめざされていました。トリエンナーレの開催もなく、今の私もなかったことになります。 かくして、その後は知事のリーダーシップのもと、あいちトリエンナーレが開催されることになります。

好評を博した長者町、その裏では何が起きていたのか

芸術文化センターの活用をそもそものきっかけとし、知事のリーダーシップのもと、あいちトリエンナーレは開催されました。全国的にもその成果として評価が高いのが長者町繊維街(名古屋市中区)の展開です。なかでも、KOSUGE1-16が制作した山車を存続させ、長者町の事業者らが毎年山車の練り歩きを継続していることは、アート界では一つの伝説ともなっています。また、私自身はこの長者町地区の企画事務を担当したのですが、アートの力が地域のコミュニティ形成に及ぼす影響を目の当たりにし、大きな感銘をうけ、のちに博士論文を執筆するきっかけともなりました。なぜこのようなことが起きたのでしょうか。

まちの人と一緒に作品を作るアーティストとして日本で数多くの実績があったこと、作風が「都市の祝祭」というテーマと合致したことから、車田智志乃、土谷享の二人組によるアーティストユニットKOSUGE1-16が長者町地区の出展作家として選ばれました。彼らは、長者町の歴史をたどり戦災で山車が焼けてしまったことを知り、2年越しのプロジェクト《長者町山車プロジェクト》を展開していきます。

2009年長者町ゑびす祭での「やわらかい山車」曳き回し。写真右から著者、やわらかい山車を曳く神田真秋知事(当時)、山車の前がKOSUGE1-16の土谷享さん

2009年長者町ゑびす祭での「やわらかい山車」曳き回し。写真右から著者、山車を曳く神田真秋知事(当時)、山車の前がKOSUGE1-16の土谷享さん

あいちトリエンナーレの事前の広報を主な目的として1年前に開催されたプレイベントでは、長者町の繊維を素材にぬいぐるみのような「やわらかい山車」を制作しました。ただ、多くのボランティアが毎晩遅くまで協力したものの思った以上に縫い合わせに手間がかかりました。開催日までに完成させることはできませんでした。人形制作のワークショップなどを開催するなど、開幕後も引き続き制作を継続します。まちづくりの一環として長者町が10年前から継続してきたゑびす祭りで、ようやくその完成した姿が披露されました。

関連リンク:長者町山車プロジェクト やわらかい山車

続いて、あいちトリエンナーレ2010では彼らは「かたい山車」の制作に取り組みます。しかし、準備段階ではその実現が相当危ぶまれました。

「かたい山車」は本当にできるのか?曳けるのか?

そもそも、ゑびす祭り自体をトリエンナーレと同時開催することが決まっていませんでした。長者町の若手らからは「祭りの性格が違う。手間が足らない」などの意見がでて、同時開催する話がなかなかまとまりませんでした。一時は閑散とした長者町通りを山車が練り歩く光景を覚悟したこともありました。

また、山車の制作場所の確保も難航しました。山車の背丈を確保する空間を開催前数ヶ月にわたり無償で長者町地区周辺で確保しなければなりません。唯一条件を満たしたのが、旧モリリン株式会社の荷捌き場でした。しかし、すでにオリックス株式会社に引き渡され、解体工事が始まろうとしていました。長者町地区以外の資本相手の交渉では、義理人情や長者町のネットワークも通用しません。それでも、長者町の有力者とともに、幾度も交渉に臨みました。ときには1時間以上座り込んだことも記憶しています。熱意が通じ、開催数ヶ月前にオリックス株式会社が建物取り壊しの手順を変更することでようやく制作場所が確保できたのです。

2010年の長者町ゑびす祭りで披露された「かたい山車」。山車上部では、長者町でかつて見られたであろう自転車での荷物配達を再現したからくり人形が上演された

2010年の長者町ゑびす祭りで披露された「かたい山車」。山車上部では、長者町でかつて見られたであろう自転車での荷物配達を再現したからくり人形が上演された

山車が制作されてからもドラマは続きます。KOSUGE1-16は山車を制作するだけでなく、ゑびす祭りで長者町の人たちがその山車を曳くことをも企図しました。山車という面倒なものをあえて長者町に投げ込むことで、日本が近代化の過程で置き去りし、それ自体も忘れてしまった地域の支え合いを促そうとしたのです。これに対して、長者町は山車を曳きなれず事故の危険もあることから、曳き手を余所から雇うことを提案します。

しかし、KOSUGE1-16は「長者町の人が山車を曳くことで、長者町の人が力をあわせる。それこそが作品の意図だ」と譲りません。幾度か話し合いを重ねたのち、KOSUGE1-16の熱意を受け入れ若手らは山車の曳き手を自ら担うことを受け入れます。

9月5日山車の試運転を行います。しかし、2tもある山車を素人集団が操るのは容易ではありません。社長の集まりであることが災いしたのか、まさに船頭多くして舟山に登るです。滑ればよいとばかりに路面にござや竹をまき散らしたのがそもそも間違っていたのですが、やっと動いてもそのござや竹に足を救われ、曳き手が山車に巻き込まれそうになります。いつ事故が起きてもおかしくない状況でした。

これを見た長者町の長老が黙っていませんでした。翌朝私の携帯がなり、直ちに中止を求められました。

KOSUGE1-16も含めた話し合いが行われ、練習により安全が確保できたらという条件で何とか長老の了解を取り付けました。

若手らは京都の祇園祭の山車の辻回しも研究し、練習を積み重ねました。ゑびす祭り当日、例年どおり2日間で約10万人の人出となりました。そうしたなか事故を起こすこともなく、辻回しの技量も上達し、まさに観客を魅せる腕前となってたのです。

関連リンク:あいちトリエンナーレ2010 レポート 7 長者町ゑびす祭り

長者町の若手らが中心となって山車を曳き回した

長者町の若手らが中心となって山車を曳き回した

アート山車が生んだつながり

とはいうものの、あいちトリエンナーレ2010終了後の山車の存続については、「山車を長者町に残すことは、保管場所や維持費の確保がままならないことから無理だ」というのがゑびす祭り開催前の長者町の大多数の意見でした。力を合わせたことが長者町に残っていくことを企図したKOSUGE1-16も、長者町の負担を考え山車を残すこと自体は半ば諦めていました。

しかし、先ほどの技量の上達が風向きを変えます。中心となったのが広告代理店の経営者佐藤敦(敬称略)でした。長者町では2002 年から2004 年にかけて、問屋だった空ビルを名古屋長者町織物協同組合が借り受け、リノベーションを行い計3 棟の「えびすビル」を立ち上げます。この取り組みは広告代理店経営者、IT 企業の経営者ら新たなまちづくりの担い手が生まれるきっかけとなったのですが、彼はその一人でした。

年間約50万~100万円が見込まれる修繕等維持・活動費について、長者町でアートに関する活動をし、そのための寄金を集めたいといって、佐藤は周りを動かしていきます。アートアニュアル実行委員会を立ち上げ、その後山車を毎年継続して続ける原動力となりました。

このとき、誰もが山車を何とかしたいと思っていました。KOSUGE1-16が地域の支えあいを促そうと果敢にまちに重荷を背負わせたようとしたのですが、それに見事に応える力がまちにあったのです。そうした力が、10年のまちづくりで培われていたのだと思われます。こうしたアーティストとまちとの限界ギリギリの掛け合いが、この作品の見どころなのです。

KOSUGE1-16による「かたい山車」は一過性のアート作品ではなく、地域の山車となって曳き継がれていくこととなった

KOSUGE1-16による「かたい山車」は一過性のアート作品ではなく、地域の山車となって曳き継がれていくこととなった

ちなみに、その後日談ですが、山車を長者町に残すキーパーソンとなった佐藤は、その勢いや心意気が買われたこともあり翌年中区選出の県会議員の選挙に立候補し、見事に当選するのです。

ところで、私自身もよくあいちトリエンナーレで人生が変わったと言われます。しかし、私は、自分があいちトリエンナーレを変えたと思っています。

次回は、私自身がこうしたアートの力を目の当たりにして、その力を世に伝えたいと思い博士論文を書くに至った経緯をお伝えします

連載:吉田隆之の「あいちトリエンナーレこぼれ話」
第1回「長者町に根付いたアート山車」
第2回「長者町の『風』となった若者達」
第3回「参加して楽しもう!トリエンナーレ」
第4回「あいちトリエンナーレは何を目指すのか」
トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意義と展望 (文化とまちづくり叢書)吉田隆之
関連書籍「トリエンナーレはなにをめざすのか:都市型芸術祭の意義と展望
  • 著者:吉田隆之
  • A5判並製 304頁
  • 本体 3,000 円+ 税
内容紹介

あいちトリエンナーレ。この10億円以上の税金を使う大がかりなアートプロジェクトの方向性は正しいのか。横浜や神戸のように都市 型芸術祭を創造都市政策上に位置づけたからといって、必ずしも継続性が担保されるわけではない。このような文化事業は首長の交替や経 済情勢などにより容易に政策転換されてしまう可能性がある。

著者は愛知県職員として、2009年からあいちトリエンナーレの隣接都市空間の展開と企画コンペを担当。メーン会場となった名古屋市中区長者町地区では、トリエンナーレをきっかけに地区内外で若者らの コミュニティが次々と生まれ、その数、自発性、変容のスピード感などが、他のアートプロジェクトに比べ半歩抜きん出ているように思われた。 その一方であいちトリエンナーレ開催後、札幌市・さいたま市・ 京都市など多くの都市型芸術祭が新たに開催・計画されたが、これらの国際展に対して均質化・陳腐化が指摘されている。

本書は、長者町地区で起きた地域コミュニティ形成の面での効果と「トリエンナーレが何を目指すのか」、ひいては都市型芸術祭の今後の方向性に焦点を当て、その意義と継続の道筋を示す。

吉田隆之(よしだたかゆき)
吉田隆之

1965年神戸市生まれ。京都大学法学部卒業。愛知県職員。愛知県庁入庁後、へき地校、がんセンター等で経理事務を担当した。へき地校赴任の際は、地域活性化を目的としたNPO法人稲武未来塾を生徒の父母らとともに立ち上げた。文化芸術課国際芸術祭推進室で主にあいちトリエンナーレ2010長者町会場を担当。職務の傍ら、2010年京都大学公共政策大学院修了。2013年東京藝術大学大学院音楽研究科博士後期課程音楽文化学専攻芸術環境創造分野修了。公共政策修士(専門職)、学術(博士)。主な著書に「トリエンナーレはなにをめざすのか:都市型芸術祭の意義と展望」。研究テーマは文化政策、アートプロジェクト、芸術祭。

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