沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第20講 杉村界隈 第4回「料亭の文化 十州楼」

料亭の文化 十州楼

十州楼あとには新築の家が立ち並んでいた(撮影:2014年4月)

十州楼あとには新築の家が立ち並んでいた(撮影:2014年4月)

※この文章は2004年3月に執筆されたものです。十州楼はすでに取り壊され現存していません。

大曽根の料亭、十州楼の歴史を綴った『十州楼のあゆみ』を手にしていた時だ。なつかしい顔が載っている。先代の女将道家晶子さんだ。『十州楼のあゆみ』は、晶子さんが亡くなった時、その遺品の中から直筆原稿の「私の知って いる十州楼の歴史」などが見つかり、それをまとめた本だ。

料亭の女将は一流の文化人だ。今の女将利子さんは、お茶、お花、書道とすべてに堪能な方だ。流麗な字で書かれた手紙などをいただいた時には返事を出すのが憚られるほどだ。

料亭は男を磨く場所だ。十州楼にあがると身だしなみ、言葉づかい、靴のぬぎ方、酒の飲み方にいたるまで、利子さんが目を光らせているような感じがした。じょうずに酒を飲み、じょうずに宴席を楽しむ。十州楼はそんな料亭だ。

久しぶりに十州楼に出かけた。十州楼は文化庁より登録有形文化財に指定されている。指定理由は数寄屋風(茶室風の建物とこれに日本庭園を伴う建築様式)を意図した建物と庭のバランスを考慮した配置となっている点、本館、離れ、長生殿とも創建当初からほとんど改造がなく、また空襲にもあわずに現存している点である。

※現存していませんがgoogle おみせフォトで十州楼の内部を見ることができます。

本館は昭和十一年、長生殿は昭和十二年に竣工した建物だ。唐破風造りの玄関を入って、はなれに案内された。部屋は庭に面していて、大きな鯉が、池に何匹も泳いでいる。 気のあった友人と酒席を楽しむのは、よいものだ。

「先祖は代々庄屋をつとめていました。二代目の時に旅人にうどんなどを食べさせる、屋号を沢屋という店を開きました。十州楼と名前を変えたのは、三代目の祐七の時です。祐七は千四百坪の敷地に三階建てを新築し、大きな庭を造りました。明治十六年、伊藤博文公が二階から三州、濃州など十州の国々の山々が眺められるのに感動して、十州楼と名づけられたということです」

利子さんは、箸袋を取り出された。箸袋には十州の国々が記されている。

十州楼の道家祐七家に天保十二年(一八四一)、のちに総持寺の貫主(かんじゅ)となる石川素童が誕生した。素童は嘉永二年 (一八四九)に東寺町の泰増寺で得度をする。安政四年(一八五七)十七歳の時、長州の大寧寺をたずね分応和尚について禅宗の奥義を学んだ。分応和尚が出した公案(禅を学ぶ人に出す研究課題)を解くために、七カ月間、単前(坐 所)に端座して、一日も横たわって寝ることがなかったという。

明治三十八年、大本山総持寺貫主となり、翌年には管長となった。能登にあった総持寺を鶴見に移したのは素童の決断による。素童は新弟子六十万人、新寺八十カ所を開いたという。 「素童の書が家に残っています。素童を尊敬するあまり、七代目鋂次郎は素童にとてもよく似た字を書いていまし た。十州楼の当主の字は素童の字に似てしまいます」と利子さんはいわれる。

『十州楼のあゆみ』の中に、晶子さんが素童にまつわる逸話を記されている。

昭和二十七年、十州楼が一時休業した後、飛騨の高山で盛大に商売をしている角正がしばらく店を借りて開店することになった。開店の準備をしているころ、夜になると店内をすり足で歩く音が聞こえてくる。音に気づいた者が、 目を覚した。念珠を手にした僧侶がゆっくりと歩いている。驚いて、たいへんな騒ぎとなった。 神主に丁重なお祓いをしてもらって開店にこぎつけた。

晶子さんは「素童禅師は生家をなつかしみ、お別れにお越しになったに違いない」と思われたという。

楽しい宴席が終わり、外に出ると夜空に星がまたたいていた。

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