沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第9回「志賀の源吉──安栄寺」

志賀の源吉──安栄寺

室町時代の六地蔵は小祠に安置されている

室町時代の六地蔵は小祠に安置されている

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

墓場の片すみに立っている六地蔵をよくみかける。仏教の考え方では、人間は死ぬと六道のいずれかに、生前の行いによって、ゆくのだそうだ。生前に悪い行いをした人は、地獄におちてゆく。やせ細り、のどが針のあなのようで、飲食することのできない餓鬼道におちてゆく人もいる。鳥やけだものに姿が変わる畜生道におちてゆく人、たえず闘いや争いをくり返す修羅道におちてゆく人もいる。

反対によい行いをした人は、次に生まれてくる時も人間になることができる。天人や天使の住む天国にのぼることのできる人もいる。六地蔵は、このような六道思想によって生まれたものである。一般的に六地蔵は、次のように呼ばれている。地獄を表す檀陀地蔵、餓鬼道を表す宝珠地蔵、畜生道を表す宝印地蔵、阿修羅道を表す持地地蔵、人間を表す除蓋障地蔵、天道を表す日光菩薩地蔵だ。

安栄寺は慶長十九年(一六一四)に嘉屋首座が建立した万松寺の末寺の曹洞宗の寺である。この寺には二体の六地蔵がまつられている。室町時代に建てられたものと江戸時代に建てられたものだ。室町時代の六地蔵は、硬質砂岩の板碑(平板な石に刻んだもの)に、上下二段に三体ずつの地蔵が浮き彫りにされている。像の左右に「□□□□大永七年十月日」「尾州山田庄志賀郷」の文字が刻まれている。

小祠の中をのぞき込むと上下2段に3体ずつ地蔵が並んだ石像がある

小祠の中をのぞき込むと上下2段に3体ずつ地蔵が並んだ石像がある

大永七年(一五二七)に志賀の里の住人が寄進したものであろう。室町時代は、戦争にあけくれした時代だった。戦で亡くなってゆく人が大勢いた。戦いに出かけない老人や子ども、女は貧しさのなかであえいでいた。貧しさのなかで、病気で亡くなってゆく人もいた。地獄のような生活だったろう。

どのような思いで、志賀の里人が、この六地蔵を建てたかはわからない。もともとは、この六地蔵は志賀公園の東北隅の墓地にあったものだ。この世では、けっして幸福であったとは思われない死者を、六地蔵によって、六道のよい道に入ってゆくことを祈って建てたものであろう。

まちがいなく日光菩薩に導かれ天道に入った人がいる。志賀の源吉である。  東志賀村の百姓源吉は、石を集めることが大好きであった。野良仕事は女房まかせで、川に出かけてはめずらしい石を集めてきて、それを磨いて楽しんでいた。 源吉の集めた石を法外な値段で売ってくれと頼む人もいる。しかし、源吉は一つとして売ることはなかった。

石を集めること以外に何もできない源吉は無欲で無心であった。そんな源吉は多くの人々から愛されていた。安栄寺には、源吉を慕う人々によって建てられた石碑がある。正面には「金牛岡」と書かれ、背面には「智者は山を愛し 仁者は水を楽しむ 此翁の喜ぶこころは水にあらず山にあらず 曽て聞く大伯化して石に成る 旧に依って 流落して人間にあり」と刻まれている。好きなものに夢中になり、好きなものと同化する。幸福な人生を送った源吉を思って金牛岡をみていた。

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