子どもの守神──児子宮
北生涯学習センターの北の道を東にむかって歩いてゆく。通りをはさんで小さな祠が南側と北側の地に立っている。祠の中には、お地蔵さまがまつってある。北側の駐車場の脇にまつられているお地蔵さまは、駐車場の持主の方が三代にわたり守りをしていらっしゃる。お地蔵さまには、いつも花が供えてある。
近くに住む天野信吉さんは、「このあたりは、今は住宅地ですが、むかしはいくつもの川が流れているのんびりとした田舎でした。あの地蔵さまも、小川にかかる橋のかたわらに立っていました。ところが、この地蔵さまが川に飛び込み、川の中に立っているということがなんどもありました。そこで、橋に近い家で、お地蔵さまを預かることになったのです。なぜ、お地蔵さまが、川に飛び込むのかはわかりません」
道をはさんで南側にあるお地蔵さまは、戦後、火事が二度ほど続いた時に、火災から町内を守るために建てられたものだ。町内の二軒の方が、いつも守をしていらっしゃる。 二体のお地蔵さまがまつってある通りを、さらに東に進むと児子宮(ちごのみや)がある。
児子宮はもともとは児の宮、あるいは児の御前社とも呼ばれていた、綿神社の東、西志賀村にあった。安永年間(一七七二~一七八〇)より、尾張藩主が何度も、この神社に参拝をし、修理費などを与え庇護した。明治七年、神社は現在の東志賀の地に移ってきた。神殿と拝殿は、西志賀の地より移したものだが、石鳥居は明治三十七年に建立したものだ。
児子宮では、さまざまな神事が行なわれた。江戸時代には三月十四日に、神殿で神楽が演じられ、多くの人が集まってきた。大正時代には、四月十四日より三十日まで、子どもの「疫痢(はやて)」よけのまじないとして赤い丸をひたいに描く神事があった。この時には、一日に二万人の人が参拝したという。
赤丸神事に何万人もの人が押し寄せるほど、子どもの守神として、児子宮は昔から多くの人々に敬われてきた。現代ほど医学が発達していない時代、子どもが病気にかかれば、児子宮に来て祈る。子どもの夜泣きがやまない、癇の虫がおこったと、虫封じに児子宮に来て祈る。児子宮は子どもの成育に、なくてはならない神社だった。
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