沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第3回「乗合馬車が走る黒川岸──犬山街道」

乗合馬車が走る黒川岸──犬山街道

御用水跡街園と堀川

御用水跡街園と堀川

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

黒川東岸の御用水跡街園は散策路として親しまれ、散歩やジョギングを楽しむ人の姿が多い。対岸は車も通ることができる道だが、桜の季節以外には人も車も少ない静かな裏道だ。車は平行している辻本通を走りぬけ、都心や春日井へと向っている。この静かな黒川岸の道はかつて「犬山街道」と呼ばれ、名古屋と犬山を結ぶ幹線道路であった。

江戸時代には名古屋から犬山方面へ行くには、清水から安井をとおる稲置街道(木曽街道)が利用されていた。この稲置街道は「犬山街道」ともよばれたが、明治一〇年(一八七七)の黒川開削の時に、併せて黒川の川岸が道路として整備され、翌一一年(一八七八)には水分橋もかけられて、この新しい道が犬山街道と名づけられた。清水口から稲置街道を北へ進み、黒川橋を渡ったところが稲置街道と新しい犬山街道の分岐点である。犬山街道は、ここから黒川の岸を北東へと伸びている。

この頃の沿線はまだ田園地帯で、東志賀の集落を過ぎると一面の田になり、せせらぎの音を聞きながら進んでゆくと、途中で下飯田や辻村への道が分岐していた。矢田川を三階橋で渡って瀬古に入り、庄内川の水分橋を越えて味鋺神社の北東で新しい犬山街道は稲置街道に再び合流した。黒川橋から味鋺神社までのパイパスができたわけである。

それまで使われてきた稲置街道は不便な道であった。明治元年(一八六八)頃より庄内川には車の通路幅だけ板を敷いた「車橋」がかけられるようになっていたが、成願寺と瀬古の間は依然として低湿地帯を通らなければならなかった。 人々は通行しやすい新犬山街道を利用するようになり、黒川岸を通る人や馬車、車が増えていった。

日露戦争(一九〇四~五)の頃から小牧~清水口の乗合馬車が運行されるようになった。黒川の岸を当時の大量輸送手段である馬車がトコトコと走っていたのである。大正七年(一九一八)には乗合自動車が小牧~大曽根を、昭和六年(一九三一)には今の名鉄小牧線が開通してガソリンカーが犬山~上飯田を結ぶようになった。一九年(一九四四)には市電が上飯田まで延長され、上飯田周辺と犬山街道は名古屋北東部の交通の中心として非常な賑わいをみせていた。

この犬山街道が今のような静かな道になったのは、並行する辻本通が造られたためである。 都心に近い北区内では、大正元年(一九一二)から都市化に向けて区画整理が始まっている。昭和の初期になると、黒川西岸地域でも耕地整理組合や区画整理組合が設立され、将来の発展のために道路や公園などの整備が進められた。このなかで辻本通りの建設が行われ、敗戦までに工事は相当程度進捗していた。

小牧飛行場(現:名古屋空港)は敗戦により米軍に接収されて基地になり、都心と米軍基地を結ぶこの道の重要性は非常に高くなった。このため、市の中心部でも砂利道が普通であった戦後の早い時期に舗装が行われ、立派なこの舗装道路を人々は「防衛道路」と呼び、交通の中心も黒川沿いの犬山街道から辻本通へと移っていった。

地図


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