沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第19講 御用水跡街園 第2回「お堀や巾下水道へ水を──御用水跡街園」

お堀や巾下水道へ水を──御用水跡街園

昭和初期の夫婦橋

昭和初期の夫婦橋

※この文章は2004年6月に執筆されたものです。

堀川(黒川)に沿って夫婦橋から猿投橋まで、御用水跡街園が続いている。  このあたりの堀川は、市内ではめずらしい草生えの土手が残り、小魚をねらってコサギなどの鳥が集まり、時には「清流の宝石」カワセミの姿も見かける。さながらふるさとの川といった風情である。

御用水跡街園は、以前は御用水と呼ばれていた。名古屋城は慶長十五年(一六一〇)に造られ、当初はお堀に水を引く水路はなく自然の湧き水などで満たされていた。しかし、半世紀を経過すると、名古屋台地が市街地になりだんだん湧水も減ってきた。また、人家が増えてきた巾下(西区)方面は、海水の干満で井戸のが上下したと記録されるような低湿地であり、塩分のない飲料水を確保する必要もあった。このため、寛文三年(一六六三)に御用水が開削された。

龍泉寺近くの川村(守山区)で庄内川から取水した水を矢田川に流入させ、対岸の辻村(北区辻町)で矢田川の水とともにお堀に取り入れた。こうして、お堀に常時きれいな水が流れ込むようになり、よぶんな水は堀の南西に造られた辰の口(排水口)から堀川へ流され水位が一定に保たれた。

さらに、御用水の水は水道にも使われていた。堀の西端から取水し、西水主町(中村区)まで給水していた巾下水道がそれである。水道は地中に埋めた木や竹の筒で配水され、分岐するところには枡が設けられていた。江戸の神田上水〔天正十八年(一五九〇)〕や玉川上水〔承応三年(一六五四)〕は全国的に有名であるが、名古屋でもすでに江戸時代の初期には水道が引かれていた。「水道の水で産湯を使った」と自慢するのは江戸っ子の特権ではなかったのである。

瑠璃光橋付近の黒川(2008年頃撮影)

瑠璃光橋付近の黒川(2008年頃撮影)

最初は庄内川の水を矢田川に流し入れ、両者の水をいっしょに取水し流していたが、矢田川の流砂が用水路に堆積し流れが悪くなってきた。水路を掘り替えたりしたものの維持管理が難しく、延宝四年(一六七六)に矢田川の下をくぐる伏越(水路トンネル)が造られ、庄内川の水だけを流すように改良されている。

用水の両岸には松が植えられていた。これは、日陰をつくり飲料水にも使用する水の温度があがらないようにするためと表向きにはいわれていた。また、この土手は名古屋城が落城した時、定光寺にむかう抜け道で、目立たないように松並木にしたともいう。江戸時代には、用水の土手に登ったり通行することを禁止する高札が建てられていた。松並木は戦前まで残っていたが、戦争末期に飛行機の燃料となる松根油をとるために伐採され、今は夫婦橋の近くに数本残る老松が、わずかにそのなごりをとどめている。

明治になり、北区では染色業が発展した。染色にはきれいな水がたくさん必要であるが、御用水の水を工場に引き込み名古屋友禅などのみごとな染物が行われていた。昭和三十年(一九五五)代になると、水源である庄内川の水質も悪化し、しだいに用水もどぶのようになってきた。

昭和四十七年に、夫婦橋から猿投橋までの約一・七キロメートルをうめて黒川(堀川)沿いの散歩道にする工事が始まり、昭和四十九年に完成している。当時、市内各地で廃線になっていった市電の敷石を散策路に敷き、再利用している。今では木々も大きく成長して、かつての松並木の風景は春には桜のトンネルとなり、緑豊かな水辺の散策路として多くの人が利用している。

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