マダム貞奴──川上絹布跡
※この文章は2004年6月に執筆されたものです。
過ぎし昔の夢なれや 工女工女と一口に
とかく世間のさげすみを うけて口惜しき身なりしが
文化進める大御代の 恵みの風に大道を
なみせる古き習しや 思想を漸く吹き払い
この歌は、川上貞(芸名・貞奴)が大正七年(一九一八)に上飯田につくった川上絹布会社の社歌である。川上絹布会社では、十五、六歳から二十歳まで四十~五十人の女工が働いていた。作業は四十五分働き、十五分休む。紺のセーラー服に靴をはき、女学生のような格好をしていた。昼休みの運動にはテニスをする。テニスコートのほかにプールも工場にある。全員が寮で生活をしていた。夜にはお茶、お花、和裁などの習いごとをした。休日には演芸会などのレクリェーションが行われた。
厳しい労働と安い給料で、朝早くから夜遅くまで働く。自分に与えられた仕事の割当てができなければ厳しくしかられる。明治から大正の初めにかけての女工たちの生活は、「世間のさげすみ」をうけるみじめな生活だった。川上絹布会社は、今までの女工の生活とは、まったく違う生活を送ることのできる新しい会社であったのだ。
川上絹布会社を上飯田につくった川上貞は、明治時代に夫の川上音二郎とともに、それまでの歌舞伎とは違った新しい芝居の新派劇をつくった。
明治四十四年(一九一〇)、川上音二郎がなくなった。夫の死後、大正七年から貞奴は名古屋の二葉町で、名古屋電灯会社、愛知電機鉄道会社の社長であった福沢桃介と新しい生活を始めた。桃介はのちに、大井ダムを完成させ木曽川の水力発電に手をつけた実業家である。
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