沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第18講 三階橋より水分橋 第9回「黒川に水を分ける橋──水分橋」

黒川に水を分ける橋──水分橋

水分橋と名古屋駅ビル群

水分橋と名古屋駅ビル群

※この文章は2004年5月に執筆されたものです。

明治九年、黒川が掘削されると、その掘り上げられた土でもって犬山街道が造られた。街道に橋が架けられたのは明治十一年の四月。鉄筋コンクリートの橋になったのは昭和十八年の十一月のことだ。橋の長さは二百五メートル、幅は十一メートルである。

水分橋という橋の名前は、黒川に庄内川の水を分けるところから付けられたものだ。水分橋は、朝の通勤ラッシュの頃には、車の列が延々と続いている。川の流れに目を注ぎ、のんびりと街道を歩く人の姿を、今は見ることができない。しかし、橋が架けられた頃の水分橋の辺はのどかなものだった。

郷土研究誌『もりやま』に「川西附近と犬山街道」と題して、遠き日の街道の様子が次のように記されている。

街道には松が植えられ、やがて東海道をしのばせる古風な松並木となった。行きかう人々も多くなり、街道沿いには、馬車屋、うどん屋、ういろう屋、紺屋、瓦屋等の店ができた。うどん屋では、豆腐も売っていて当時も豆腐は、人々の食生活に欠かせない蛋白源であり、買いにくる人も多かった。紺屋は、丸いかめがいくつも並べてあり、染料をあたためる煙が、一日中出ていた。木綿糸をつむぎ、紺屋で染め上げてもらって、それをはたにかけ、日常の衣類をつくった。用水を通る舟は、東春日井郡方面のお米を堀川へ運搬し、又木曽川からの玉石を、名古屋の中心部へ運んだ。舟は新木津用水を通り、庄内川へとはいった。

のどかな明治の終りの街道の様子がよくうかがえる文章だ。馬車屋、紺屋、瓦屋が街道から姿を消して久しい。現在、国道四十一号(※現在は愛知県道102号名古屋犬山線)は車が通過するだけの道になってしまい、うどん屋等の飲食店も大きな駐車場がないかぎり経営してゆけない時代だ。

「川西附近と犬山街道」は、続いて大正の初めの犬山街道を、次のように紹介している。

大正にはいり、街道の様子も少しづつ変って来た。商店もふえ、米屋、酒屋、油屋、居酒屋、運送屋、めし屋、ういろう屋が立ち並んだ。めし屋は、運送屋さん等が、ここで食事をし、休息していった。ういろう屋には、白と青のまんじゅうが売られ、とても美味しく、当時、五厘であったのが、まもなく一銭に値上りした。ういろうは、一本五銭で、これも味がよく、評判であった。一般家庭では、食糧の買物等、あまり出かける事はなく、ほとんど自給自足的な生活であったが、時々名古屋の清水方面から、大八車で干物等、乾物類を売りに来た。祭りや祝い事のある時には、家で飼っている鶏を、料理したが、この頃になると、かしわを売りにくる人もあり、又、大曽根まで出れば、たいていの物は、手にはいった。大曽根までは歩く人も多かったが、近くの馬車屋に頼めば、小牧から大曽根の間を乗せてくれた。
その頃、三階橋と水分橋は、木橋であった。犬山街道を、乗合馬車が馳けるようになったのは、日露戦争の頃からで、小牧を起点として、清水坂上までであった。明治の末、自転車の流行や、自動車の発達によって、大正七年頃までには、乗合馬車はほぼ姿を消した。

守山区瀬古の川西地区は、三階橋から水分橋の間の国道四十一号の西側の地だ。文章は、その地の明治三十七年、四十一年生まれの二人の古老の話を大嶽美智子、木下朋子の二氏がまとめたものだ。街道に沿った町の人のくらしと町のたたずまいが彷彿としてくる文章だ。

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