輪中の里──栄橋
三階橋を渡り、矢田川の堤防を東に歩いて行く。小さな祠が祀ってある。疫病から人々を護るという天王社の祠だ。矢田川の堤防上には、信号がないから車がひっきりなしに往来している。車道の際にある祠に、わざわざ危険を冒して参りに来る人はいないが、それでも秋祭りの時には幟がたてられる。今でも、土地の人々によって大切に護られているのだ。
もともと、この天王社は三階橋の南側にあったものだ。かつての天王社の祭は、前日になると、部落の人は天王社の前に縄をまいた長い竿を置いて準備をした。祭の当日になると子どもたちが竹に提灯をさげて持ってきて社前の竿をさす。川面に提灯の灯が映じて天王祭は夏の風物詩のひとつであった。堤防の上に祠が祭ってあるのは、水害の時に流失しないためだ。
祠の横の道を下りてゆく。丸石を組みたてた石垣の上に民家が立っている。瀬古の部落は、矢田川、庄内川にはさまれ、しばしば洪水に見舞われた。民家は、石垣で囲まれ、高く土盛りをした敷地の上に建てられていた。水屋と称されているものだ。
堀川の対岸の上には名鉄電車上飯田線のレールが続いている。上飯田連絡線の開通によって、廃線になった名鉄小牧線が走っていた瀬古地内の軌道敷は、明治九年、黒川治愿によって開削された堀川の堤防を利用して敷かれたものだ。この堤防は、輪中堤と一体となって使用されていた。
庄内川、矢田川にはさまれた瀬古の里は、江戸時代より何度も水害に見舞われている。水害を避けるために家屋は水屋風に石垣をつくり、土を高く盛って作られた。瀬古の里は庄内川、矢田川の水害に備え堤防によって囲まれていた。瀬古は水防協同体の輪中の里だ。高い軌道の上を走る名鉄電車のレールは、もともとは水害から瀬古を護るための堤防であったのだ。『守山区の歴史』は、瀬古の輪中について、次のように記している。
木曽三川の下流部は、輪中地帯として有名であるが、瀬古村にも輪中が造られていた。造られた時期は明らかでないが、元禄十六年(一七〇三)には「瀬古村輪中」の記録があり、『尾張徇行記』にも「水潦を防ぐ為に懸回し小堤あり」と記されている。この輪中は、大正年間の耕地整理によって消滅した。
瀬古地内の堀川の東岸は、今は地下にもぐった名鉄小牧線が走り、西岸には国道四十一号(※現在は愛知県道102号名古屋犬山線)が走っている。国道四十一号は、明治九年の黒川治愿の手による堀川の掘削された時、その西岸に造られた道路だ。三階橋と水分橋とを直線に結んだ道路が出来あがると、安井から味鋺にぬけていた稲置街道は廃れてしまった。江戸時代より多くの旅人が往来した稲置街道に代わり国道四十一号が犬山、小牧にぬける本道となり、通称犬山街道と呼ばれた。堀川に沿った街道は幅三間ほどで両側には松の木が植えられていた。
春は桜の花に彩られる栄橋の上流には、旅人を相手とする茶店があった。茶店でのどかに川を下る船を見ながら、旅人はのどをうるおしていた。そして、道端には、むしろの上に近郊の農家の人が、畑でとれた野菜を並べて売っていたという。
堀川の東岸の輪中堤もなくなり、名鉄上牧線も地下にもぐってしまった。西岸の茶店もいつごろか姿を消してしまったが、四十一号の交通量は年々増えてゆくばかりだ。
地図
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