天神さまお神酒に酔う──高牟神社
矢田川の堤防の上に幟り立が建っている。祭の時には、この幟り立に高い竿が立てられ、幟りが風になびいてはためく。堤防の上を何台もの車が走ってゆく。この幟り立に気づいて、車を運転している人は誰もいないであろう。
堤防の下、森の中にある社が高牟神社だ。境内に入ってゆく。境内はひっそりとしている。聞こえてくるのは、鳥のさえずりだけだ。本殿の脇に昭和三十六年、神社が再建された時に建立された記念碑が立っている。記念碑には、高牟神社の由来が次のように書かれている。
当社は天正天皇養老元年十一月十五日に鎮座せられ、時に高見の称を賜へりと伝えられ、以来ここに千二百有余年を経て古い記録は失われているが、社伝によれば御本殿は醍醐天皇昌泰三年九月十五日と江戸時代の文政八年九月十七日に再建。延喜式神名帳に「春日部高牟神社」本国帳に「従三位高牟天神」瀬古以外八ケ村の総鎮守と仰がるるも、今次大戦に被爆消失、復興再建昭和三十六年十月七日、由緒ある式内なり。
碑文にあるように、矢田川の下にある高牟神社は、数度の洪水によって、古い記録は流失してしまった。昭和四年に矢田川が決壊した時には、神社の一部が土砂に埋まったと伝えられている。
養老元年(七一七)十一月十五日の創立。祭神は高皇産霊命(たかみむすびのみこと)。大山祇命、天照大御神、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)が合祀されている。延喜式神名帳にある「春日部高牟神社」については、春日井市の松原神社、師勝町の高田寺、白山をあてるなど諸説がある。
『尾張志』は「瀬古村石山寺の辺、高見という地に、今は天神社と称して、古き棟札もありて旧社あり。此地ならむも知るべからず」と本国帳にいう高見天神を式内社であるとしている。「されど正しき伝えあるにあらず、社のさまの古めかしきと地名の似たるにすがりて斯く論じおくなり」と述べ、式内式とする確とした根拠はないとしている。
由緒ある神社にふさわしく、境内には数多くの燈籠が寄進されている。正面竿部に「村中安全」と刻まれている燈籠が二基ある。明治六年と明治二十二年に村人たちから寄進されたものだ。二十五歳の厄年の青年たちが寄進した燈籠も大正十五年、昭和六年に建てられたものが建っている。
本殿の左脇に石造の牛が置かれている。牛の石像が置かれているのは、山田次郎重忠が菅原道真の画像を奉納し、この神社が高見天神と呼ばれ、道真とゆかりの深い神社だからだ。
天保時代、この画像を高牟神社の祢宜が、矢田川の対岸にある山田の質屋大坂屋に質入れをした。しかし、返済することができず画像は大坂屋の所有となった。明治の初め、瀬古村から画像を村の宝であるから返してほしいと何度も大坂屋に願いでた。なかなか埒があかない。明治五年、当局の裁可によって、十二月二十五日から翌年の六月二十五日までは高牟神社に、六月二十五日より十二月二十五日までは大坂屋で保有されることになった。
明治の中期、矢田川に架けられた下街道の橋の上を高牟神社の氏子たちが毎年、画像を大切にお渡しした。菅公の画像が行き来する橋なので、橋の名前は天神橋と名づけられた。
『もりやま』に所収されている「天神橋と大坂屋」(馬場勇)の中に、次のような一文がある。
菅原道真公の自画像をお移しする際、浄めて床の間にお祀りして灯明をあげ、お神酒をお供えすると画像のお顔がほんのり朱を帯びたと伝えられている。
菅公の画像は、昭和二十年五月の空襲により高牟神社の本殿とともに焼失してしまった。
地図
より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 を表示