沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第18講 三階橋より水分橋 第2回「白沢川・御用水──何度も姿が変わった古川」

白沢川・御用水──何度も姿が変わった古川

古川

古川

※この文章は2004年5月に執筆されたものです。

三階橋の北東に守西ポンプ所がある。庄内用水(堀川)の上に建つ、小さなポンプ所だ。このポンプ所へ古川が流れ込んでいる。牛牧(小幡緑地付近)あたりから流れ出し、新守山駅の南を通り、ここまできている。国道一九号より上流は石張りの護岸なども整備されきれいになっているが、このあたりの古川は切り立った護岸にコンクリートの三面張り、味も素っ気もない川である。誰も見向きもしないような川だが、紆余曲折の歴史を背負った川で、一時期は堀川の支流でもあった川だ。

この川のルーツは「白沢川」である。今も「白沢川」という別の川がある。小幡緑地から北西に流れて庄内川に注ぐ、延長はわずかに一キロメートル、流域面積三・八平方キロの小さな川だ。れっきとした準用河川で「白沢町」や「白沢小学校」の名前の元にもなっている。この白沢川は、かつてここを流れていた。小幡・大森・吉根・牛牧あたりの水を集めて西へ流れ、大雨の時には下流部でしばしば氾濫を繰り返す暴れ川であった。

明和四年(一七六七)にも大水害がおきた。矢田川の流れが長母寺の南から北へ変えられたほどの災害である。うちつづく災害に、この年、瀬古村などからの要望で流路の大幅な変更がなされた。源流近くの川村で川を塞き止め、新たに開削した水路で近くの庄内川に流すようになった。今の白沢川の誕生である。水源を失った旧白沢川は、上流部は普段は水がなく下流部は沿川からの排水を集めて流れる川になった。

古川のもう一つのルーツは寛文三年(一六六三)に開削された「御用水」である。「御用水」というと上飯田の天然プールから分水して名古屋城のお堀に続く水路を思い浮かべる。しかし、明治一〇年に黒川が開削されるまでの御用水は、竜泉寺の下で庄内川から取水し、庄内川に沿うようにして西へ流れ、幸心村からこの瀬古村を経て矢田川をくぐり名古屋城へと流れていた。幸心村から下流は低地のため土手が築かれ松並木になっており、旧白沢川と交差する所では、白沢川が御用水の下をくぐる伏越が造られていた。

寛政四年(一七九二)になると、それまでの稲生(現:西区)で主に取水していた庄内用水の流路が大幅に変えられた。竜泉寺下で取水し、御用水を拡幅して御用水と庄内用水を一緒に流すようになったのである。ここ瀬古で御用水と庄内用水を分流し、御用水は矢田川を伏せ越して名古屋城へ、庄内用水は三郷に新しく造られた水路(当時は庄内用水、現在は三郷水路)をとおり、稲生で矢田川を伏せ越して従来の庄内用水に接続した。また、稲生から名古屋城北西で大幸川(堀川上流)に流入する水路も造られた。この時に、旧白沢川は御用水と庄内用水を分流した少し下流で庄内用水に流し込むようになった。これは、水路の高低差の問題とともに、巾下水道の水源ともなっている御用水に排水が混ざらないようにするためではないかと考えられる。これにより、旧白沢川の水は、三郷水路を経て堀川にも流入するようになったのである。

明治一〇年になると黒川が開削され、この地域の川の姿は再び大きく変わっていった。 水分橋で取水し瀬古までの水路(庄内用水路・堀川)が掘られ、御用水も庄内用水も三階橋南の分水池で分流するようになった。御用水も旧白沢川もそれぞれ新しい水路に流入するようになった。二つの川は堀川の支流になったのである。

その後の耕地整理などにより、川筋は直線化され二つの流れは合体し、今の姿になっていった。古川の下流部四~五〇〇メートルの区間は元の「御用水」、それより上流は元の白沢川である。明治時代の図面を見ると、この場所に御用水と書かれているものもある。

瀬古はかつて輪中があったような低湿地である。地域の排水強化のため守西ポンプ所が造られ、古川の水は堀川から切り離されてポンプで矢田川に排水されるようになった。だが、平成一四年から黒川の環境維持のため、庄内川から取水できない時期にポンプで揚水して庄内用水に流すようになっている。ポンプ所構内に見える、「古川揚水送水管」と書かれたパイプが黒川へ水を送る管である。

古川は今ではあまり注目されることもないが、御用水と白沢川を先祖に持つ由緒正しい川であり、堀川の支流でもあった川である。今再びわずかな水量ではあるが、堀川へと水を送り環境維持に活用されている。

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