サイフォン──地蔵川
中央線を汽車に乗って、名古屋の中学校に通っていた頃の話だ。汽車は、ゆるやかなスピードで走ってゆく。地蔵川に列車が通りかかると異様な臭いが車内にたちこめてくる。今でも、その悪臭を思い出す程だから、そうとう強い臭いであった。
小学生の頃は、従兄に連れられて地蔵池に魚釣りによく出かけた。年の離れた従兄は、高校の教員をしていたが、病にかかり我家で静養していた。改修前の地蔵川は、今の流れよりも五十メートル程南側を流れていた。下市場から流れてきた地蔵川は国道十九号を横切り、その西側百メートル程のところにある地蔵池に流れ込み、庄内川に注いでいた。
葦の生い茂る地蔵池にはスッポンがいた。従兄がスッポンを捕え、それを魚屋に持って行き、お金にかえていた記憶がある。しかし、中学生になり汽車通学をする頃には工場排水によって、地蔵川は死の川となってしまった。 スッポンのような生命力の強い魚も姿を消してしまった。そして、地蔵池も埋めたてられてしまった。そんな記憶から、地蔵川といえば死の川という思い出が残っている。
地蔵川が、工場排水で死の川になった思い出だけではない。地蔵川から、魚がすっかり死んで、浮かび上がっている情景も思い浮かんでくる。終戦前日のことだったと思う。空はすっかり晴れ上り、太陽は耿耿と輝いていた。隣家の友人と地蔵川に架かる篠田橋の近くに魚を捕りに出かけた。水は清く澄んで流れていた。
地蔵川の南側には名古屋陸軍造兵廠鳥居松工場がある。東側には兵器補給廠がある。川に入ると上流から死んだ魚が何匹も浮かんで流れてくるのを見た。不気味な光景だった。五歳という幼な心にも、魚が死んだ理由が、二つの軍需工場と関係があることがすぐに理解できた。
正午近くだった。突然空襲警報が鳴った。あわてて家にもどる間もなく米軍の空襲が始まった。 地蔵川は、死の川というイメージは幼い頃から記憶に焼きついている。
この川は文永年間(一二六五~一二七五)、川の中から地蔵尊が発見されたので地蔵川と名づけられた。その地蔵尊を祀ったのが地蔵寺だ。地蔵川は、春日井市の中央部を流れ、八田川をサイフォンでくぐりぬけてゆく。庄内川に合流する八田川、地蔵川の流れを見る時、地蔵川の流れが、汚れているのは今も歴然としている。
地図
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