沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第17講 黒川治愿の足跡をたずねて 第2回「白山神社黒川治愿の碑──味鋺原新田改修記念碑」

白山神社黒川治愿の碑──味鋺原新田改修記念碑

白山神社の境内にある味鋺原新田改修記念碑

白山神社の境内にある味鋺原新田改修記念碑

※この文章は2004年4月に執筆されたものです。

白山神社の境内に一つの碑が立っている。碑文は、次のような書き出しで始まっている。

古人云苦ニ在テ而テ後ニ楽ヲ得ル者其感最モ深シト。宣ナル哉我村民ノ如キ艱苦ニ在ル久シカリキ。本村旧ト味鋺原新田ト稱ス。舊今尾藩ノ領地タリ。水田僅ニ四十餘町他ハ皆畑圃及ビ山林原野ノミ。是ヲ大縄場ト唱フ。年々秋季檢見ト稱シ藩吏員ヲ派出シ収穫ヲ量リ租額ヲ定ム。大概貢租二百石毎歳大差ナシ。

白山神社の碑は、明治三十年十一月に建立された。この碑は、雑木におおわれ、雑草が生い茂る原野に黒川治愿の手によって木津用水が改修され、原野が変じて水田になったことを感謝して建てられたものである。

碑文にある「本村」とは味美のことである。味美は北区の味鋺の地からいちだんと高い原野であった味鋺原が木津用水の改修により美田となったのを記念し、明治二十二年、味鋺原の味と美田の美をとってつけられた名前である。

『尾張徇行記』によれば味鋺原新田は承応元年(一六五二)尾張藩家老の竹腰山城守によって開墾された地である。寛文年間(一六六一~一六七二)に新木津用水が開削され、知多、海部、そして美濃の可児から、この地に入植してくる人々が出てきた。今も味美に残る知多町、美濃町、花長町という町名は、その当時の入植者の出身地から付けられたものである。しかし碑文にあるように水田はわずか四十余町、貢租は二百石という状態であった。農民の常食はひえやそばで、貧しい暮らしにあえいでいた。

碑文の中ほどに黒川治愿に関する記述がある。

木津杁前進水ヲ倍増シ一大閘門ニ改築アランコトヲ縣庁ニ哀願ス。土木課長黒川治愿其困苦ノ状情ヲ察シ杁前ニ突堤ヲ築キ西元杁樋ヲ改造及ビ水路ヲ開通シ以テ水利ヲ便シ兼テ通船ノ用ト為サントス。既ニ閘門改造成ントス。而テ井組内不服者アリ。又果サズ。歎ズベキナリ。十五年一月本村初メ五箇村協同シ伏込工事費金四千圓ヲ官ニ納レ閘門ノ改造ヲ請願ス。縣令国貞廉平許可シ土木課長ヲシテ營築セシム。同年四月落成ス。是ニ於テ閘口既ニ増大ヲ得タリト雖モ井筋各村ノ杁腐朽シ且水路狭隘ナルヲ以テ増水ノ功ヲ視ル能ハス然リト雖モ累年ノ費額ニ力盡キ支出ニ堪ヘズ。

新木津用水が開削された寛文四年(一六六四)から二百年の年月が過ぎ、耕地が増加し、用水が著しく不足するようになってきた。明治二年、新木津用水を改修し、一大用水とし水不足を補い、さらに開墾地五百町歩を開拓する計画が味鋺原新田等の識者の間で起こり、県庁に請願をくり返した。しかし、巨額の費用がかかるので、その願いも聞き入れられなかった。

明治十年になり、県から官費七万円で木曽川から名古屋に船を通す目的で新木津用水改修工事案が提示された。

県の提示を受け、味鋺原新田は二万人、春日井原新田は三万人、如意申、稲口、上条新田はそれぞれ一万人の奉仕人夫を出すことを決めた。しかし、上流の水に困らない田楽村は木津用水の改修工事には強く反対した。黒川治愿は奉仕人夫を差し出す五箇村から、五百円を田楽村に支払うことで工事を始める案を出した。当時の人夫一人の一日の賃金は十八銭である。五箇村は、五百円の金を支払うことが出来ず、結局木津用水を改修する七万円の費用は三河の明治用水の開削にまわされることになった。

明治十一年、木曽川の洪水のため、今までの井堰はすべて流失してしまった。五箇村では苗代田もできないような状態であった。五箇村の代表は木津用水の改修を強く県庁に請願した。 黒川治愿は、五箇村の願いを聞き入れ、さっそく工事を始め明治十二年、木曽川瀬割堤防の築造にとりかかった。つづいて西元杁の改造を計画し、内のり横二間、高さ九尺六寸という巨大な樋管をつくり、伏せ込みに着手した。ところが、上流の村々からまたしても異議が出て新しい樋管は、県庁の倉庫に空しく眠ったままで放置されていた。

明治十五年、古い樋管の腐朽も甚しくなってきたので、五箇村では他の村々の説得に当るとともに県庁に強く工事再開を働きかけた。黒川治愿は、五箇村で樋管の埋め込み費用四千円を出すならば、後は県費で工事を行なってもよいと指示をした。

五箇村は四千円を県に納め、荷車百余台を集め昼夜兼行で工事を再開した。樋管の埋め込みは、明治十五年の四月に完成した。しかし水路は元のままであるので、杁口を全部開くことができない。水路の拡張を五箇村で請願すると、県では五箇村で二万円を負担するならば工事を始めてもよいとの返事であった。五箇村は、碑文にある通り「累年ノ費額ニ力盡キ支出ニ堪ヘズ」という状態であった。  二万円の分担は味鋺原新田四千五百円(外に同額の人夫)、上条、如意申、稲口、春日井原、下条原、勝川新田一千円(外に同額の人夫)である。全納することはできないので、一万円は県より借り入れ、一万円は人夫代で代納することで十六年十二月に許可がおりた。

木津用水改修工事の成果を、碑文は次のように述べている。

小口村水分自在立切ノ新築及ビ新木津川底ノ改広其他改造新設杁樋大小八十余橋梁又大山川伏越ヲ転ジ立切トシ朝宮立切ヲ新設シ八田川ヲ開広シ西堤防馬踏二間東堤防馬踏一間トナス等前後費消スル所無慮数万金。然レドモ之ガ為メ本村及ビ関連諸村水利疎通灌漑浹潤乾畑変ジテ水田ト為リ原野ヲ開墾スル数百町歩。嗚呼今ヤ旧味鋺ノ面目ニアラザル也。

明治十七年、八田川の合流地点まで、幅十一メートルの改修工事が完成した。  「味鋺原のひえだんご」といわれた地が、美田の地となった。

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