赤心富士──六所宮
冬にしては暖かい日だ。明るい陽ざしが境内にさしこんでいる。老人がひとり、腰をかがめて、拝殿の前に座り日なたぼっこをしている。暖かい日ざしに誘われ、昨日までは蕾だった梅も紅い花びらを開いている。
鳥居の東に六所宮と書かれた大きな石碑が建っている。昭和十一年の九月に建立されたものだ。鳥居の西には、赤心富士と書かれた石碑が建っている。赤心富士とは、聞きなれないことばだ。碑に近づいてみると松井書とある。名古屋出身の陸軍大将松井石根の揮毫したものであろう。碑には、この碑の由来が書かれているが、摩滅していて判読できない。
老人に「赤心富士」のことを尋ねた。
「中国大陸で、盧溝橋事件を契機として戦争が始まった。この神社で万歳を唱え、日の丸の旗を振って出征する人を送ったものだ。聞いた話では、兵士が戦場からぶじに還ってくることができるように、近くの子どもたちが、小石を拾って神社に持ってきて山を造ったのだ。それを富士山と呼んだのだ」
といわれる。
「兵隊さんが戦場からぶじに帰還するのを祈って集める。そのいたいけな純粋なこころを赤心といったのですね」
「その碑に、どのように書いてあったか知らないが、戦争中の上飯田は田んぼの中で、みんな知り合いばかりだ。誰しも、戦争に勝ってぶじに帰ってきてほしいと祈ったのだろう」
老人は八十八歳だ。元気で、歯ぎれがよい、老人にいわれて、もう一度碑の由来書を見てみる。やはり判読できない。しかし、碑が建立された日付だけは、はっきりと読みとれる。昭和十二年の七月七日だ。この日は、日本軍が中国にたいして侵略戦争を始めた年だ。子どもたちは、戦争の意味も知らず、無心に石を拾い、神社に富士山を造ったのだろう。
老人に「あなたも、この神社から万歳におくられて出征されたのですか」と聞いてみた。「そうだ、そこの前から多勢の人の歓呼の声に送られて戦場にいったのだ」
老人の指さされたものは、国旗の掲揚塔だ。昭和十五年に帝国在郷軍人会が建立したものだ。掲揚塔の土台には、錨に桜の海軍のマークがついている。裏面には「日支事変ニ応召ノ命ニ接シ出征スルモノ六十余名 郷民神前ニ 壮行ヲ壮ニス 偶見ル社頭ノ国旗……」と書かれている。
今から六十余年前、老人はどのような思いで、この場所に立ち万歳の声を聞かれたのであろうか。
太平洋戦争で、六所宮はすべて灰塵に帰してしまった。しかし皮肉にも、赤心富士、国旗掲揚塔という戦時をうかがわせる石造物は残ってしまった。老人は、戦場ですごしたもどすすべのない青春の日々を思い出されたのであろうか、しばらくのあいだ、じっと掲揚塔を見てみえた。感傷をふりきるように、「掲揚塔の前に神楽殿があった。祭りの時の神楽の練習をしたものだ。子どもたちは菓子パンが目あてで、神楽の練習をしたものだ」といわれた。
神社の境内の建物は、戦後建てかえられたものばかりだ。戦前から残っているのは、石造物と樹木だけだ。境内にある樹木の中で、ひときわ高くそびえているのが楠だ。この楠は、愛知第一師範学校を出て、地元の飯田小学校に奉職された人が、明治の中期に植えられたものだ。百数十年の樹齢の楠は、ほかの樹木を圧倒するようにして立っている。
梅の花の咲く天満宮の中には、神明社、貴船社、八竜社、弁財天が合祀されている。古くから、この地にあった祠が移築されてきたのであろう。鳥居の傍にある神社の縁起書には、六所宮の創建は、慶長四年(一五九九)とされている。祭神はイザナギ、イザナミ、天照大神、スサノオノ尊、月夜見尊、蛭子の六柱であると書かれている。
神社の前を自動車が何台も通りすぎてゆく、しかし、樹木の中の六所宮は静寂につつまれている。この神社にたたずむだけでも日本の歴史をたどることができる。家に帰りテレビを何気なく見ていたら自衛隊のイラク派遣を大きく報じていた。今朝みた赤心富士が、その時、頭の中をよぎった。
地図
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