石庭──霊光院
この寺は、臨済宗の名刹である。元和元年(一六一五)、上飯田の斉藤四良右衛門が祖先の冥福を祈って建てた。白砂が陽光にきらめいている霊光院の庭は、石と砂だけでできている。霊光院という寺の名は、四良右衛門の法名の霊光院吉岸宗禅居士からとったものだといわれている。京都の石庭で有名な竜安寺のように、狭い庭ではない。ここの庭は、開放的で広い。石の配置も、計算されたものではない。雄大な大自然を模して造られた庭だ。
陽光にきらめく白砂を見ている。それは、果てしなく続く海が、きらきらと輝いているようだ。無造作に置かれた石は、島々を模したようにみえる。自我を棄て去り、無欲になることを、ここの庭は教えてくれているようだ。大自然を模して造られた庭の中を歩いていると、いつか無心の状態になってくる。
庭の片すみには、いくつもの地蔵仏が置かれている。上飯田の辻のいたるところにまつられていた野の仏が、ここに集められたのであろう。木陰にひっそりとうずくまるように立っている野の仏は、何か穏やかな温顔のものばかりだ。かつて、村の人々は、これらの地蔵仏に手をあわせ野良に出かけ、帰途には、また手をあわせて家路をたどったのであろう。
霊光院は上飯田の信仰の中心の寺だ。区画整理、道路の拡張と地域が変貌をとげるごとに野に置かれていた地蔵仏が寺に運びこまれ、これらのおびただしい石仏の数になったのだ。山門の傍に置かれている石が気になった。何かいわれのあるものではないかと住職に聞いてみた。
「あの石は、近くに住む檀家の方が、かたちのよい立派な石だからと持ってみえたもので、別にいわれのあるものではありません」
おだやかな表情で、もの静かに微笑を浮かべながら説明をしていただいた。開放的なのは石庭だけではない。住職も、村の人々のよき相談相手であり、悩みの聞き手であるのだろう。
「山門を入るとお堂があります。その中にもお地蔵さまがまつってあります。この地蔵さまは上飯田にありましたが、ビルが建てられたのでここに移りました」
野の仏だけが、寺に移されたのではない。お堂までもが、この霊光院に移ったのだ。
霊光院に移されたお堂について、水野鉦一著『上飯田のむかし』は、次のように記している。
山門を入ったところにあるお堂は太平洋戦争の末期、昭和二十年三月二十四日の夜、アメリカ軍B二九型爆撃機が名古屋地方を空襲しました。照明弾がたくさん落とされ真昼のように明るくなりました。その明るさに驚いてこの近所の人も、遠くは大曽根あたりの人達までたくさん三階橋方面へぞろぞろと避難して雑踏していました。その人の群がっているところへ中型爆弾数発が投下されました。その爆弾で名鉄ビル前から夫婦橋にわたって二百五十名余りの爆死者が出ました。これらの人々の冥福を祈り、終戦後柴山市十郎さんの発願で、当時の名鉄駅(現在の名鉄ビル)北西角に地蔵尊を建て供養されるようになりました。昭和四十一年に名鉄駅が改造され名鉄ビルができるときに霊光院へ遷座されたものです。 毎年三月二十四日を大祭日として供養が続けられています。この催しは飯田学区自治連合会が受け継いでいましたが、飯田学区が宮前学区と分離した後は、飯田・宮前両学区の自治連合会によって行われています。戦争の犠牲となられた二百五十名あまりの方々のご冥福をお祈りいたします。
お堂の中にはお地蔵さまを中央にして、『上飯田のむかし』に書かれているように、飯田、宮前と左右に分かれて供養の碑が飾られている。お堂の北側にある木立の中にも戦死者の供養塔が二基立っている。塔の表には「飯田殉国戦歿者霊位」と書かれ、裏面には「幸村すず」と建立者の名前が刻まれている。もう一基には、「飯田殉国者霊位」と書かれ、裏面には建立者の幸村鈴造と刻まれている。昭和二十三年に建てられたものだ。
寺の近くに在住の幸村富美江さんは、「あの塔は私の一族の幸村さんが建てたものです。戦争でひとり息子を亡くしました。その慰霊の塔を夫婦で一基ずつ建てられたのです」と語る。
戦争で最愛の子を失う。その悲しみを、あの塔にこめたのだ。亡くなった息子の鎮魂の碑であるとともに、それは我が子を亡くした親のどうにもならない無念の悲しみがこめられている碑でもあるのだ。塔の前には、賽銭箱が置いてないにもかかわらず、無造作に十円玉がいくつか台の上に置かれている。お参りにきた人が置いたのであろう。戦争で子どもを亡くした親の悲しみを聞き知った人が、今もこの塔にお参りにきているのではないだろうか。十円玉を見ながら、そんなことを考えていた。
戦後、六十数年経った今も、戦争で家族を亡くした人の悲しみは消えていない。
地図
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