トロッコ道──大曽根中学校
「とてもあの人にはかなわない」。上飯田の古老たちが、異口同音に賞賛する人がある。今年九十五歳になる幸村宗一さんだ。かくしゃくたるものだ。かつて幸村さんから、老いてなお元気でいる方法を三つ伝授された。
「上を向いて歩きなさい。背骨が曲がりません。誰とでもいいから話をしなさい。耳が遠くなりません。とにかく歩きなさい。足、腰が鍛えられます」
伝授されたのは五年ほど前のことであるが、現在も幸村さんは、当時と少しも変わっていない。幸村さんの家の前には宮前小学校がある。そして、その西側には公園がある。
「私の家の前の学校や住宅地には東洋紡績がありました。大正元年から十年ぐらいにかけて、田んぼを埋め立てて工場ができました。工場に働く人たちの借家が上飯田にたくさんできました。私の家も借家を持っていました。大正十二年には家賃が十二円から六円に下落するということもありました。空襲で東洋紡績は焼け、その跡に東洋木材、東洋工機が建ちました」
幸村さんの記憶は鮮明だ。大正時代、東洋紡績が幸村さんの家の前に建った。幸村さんの脳裏に今も鮮やかに残っているのはトロッコのことだ。
トロッコとはレールの上を土砂等を積んで走る四輪の台車のことだ。
「家の横にトロッコ道がありました。大曽根中学校のプールがあるあたりから、上飯田の第二市街地住宅あたりまでのところで土を掘りました。住宅のところは戦前は大隈鉄工所が建っていました。大曽根中学校には高射砲の陣地がありました。戦時中は爆撃にあいましたね」
大曽根中学校のプールのあたりは、高くなっている。プールのところが矢田川の堤防の上で、その下は土を掘ったので低くなっているという。トロッコ道は、大曽根中学校の前から霊光院の横を通って走る。霊光院の駐車場になっているところに池があった。池のところでトロッコは曲がり、霊光院の門前の道をまっすぐに走り、幸村さんの家の横をぬける。
「高いところからトロッコは、ものすごいスピードで走ってくる。たえずブレーキをかけながら走っていました。年中トロッコに油をさしていましたね」
幸村さんは、トロッコのブレーキのことをコッポといわれた。まわっている車輪の上から木の棒のコッポを入れて速度を落とすのだという。加速をつけて走るトロッコにひかれ亡くなった人もいた。トロッコ専用の道路があるのではない。人の通る道のかたわらに、トロッコのレールが敷かれていた。
九十年近くも昔のことを、今も幸村さんが覚えているのは、トロッコに対する恐怖心からではなかったろうか。ものすごいスピードで、轟音をたてて通りすぎる。へたに近づいたら、はねられて死んでしまう。子ども心に生じたトロッコへの恐怖心が幸村さんに、今も鮮やかな記憶となって残っているのではないか。
「田んぼの中の上飯田もすっかり変わってしまいました。昔は熱田神宮の尚武祭の花火もきれいに見えましたよ」
幸村さんから教えられたトロッコ道を霊光院の方にむかって歩いてゆく。一メートルほどの狭い道だ。昔は田んぼのあぜ道であったような道だ。 左手に空地がある。今は亡き俳優の天知茂の実家が戦前に建っていたところだ。区画整理が進捗していて、トロッコ道も早晩消えてしまうだろう。二年後、三年後のこのあたりはどのようになっているだろうか。そんなことを考えながらトロッコ道を歩いた。
地図
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