天災は忘れぬうちにやってくる──ふれあい橋
成願寺を越えて、矢田川の堤防に上り、車が通行することのできない「ふれあい橋」を味鋺にむけて渡ってゆく。矢田川では、渡り鳥がえさをついばんでいる。川原では、すすきの穂がゆれている。のどかな眺めだ。しかし、この矢田川が大雨により堤防が決壊したら成願寺一帯は、どのような状況になるだろうか。想像するさえ恐ろしいことであるが、江戸時代以来、何度も成願寺・中切・福徳の三郷は、悲惨な洪水の被害にあっている。
奥村徳義の『松濤棹筆』の六四巻には、矢田川の洪水の生々しい状況が書かれている。六四巻は、次のような書き出しで始まっている。
安政二年(一八五五)乙卯七月廿五日以後、雨気を起し、日夜降みふらずみする内に、廿八日と成て益甚しく、廿九日にハ今暁より降事絶間なく、昼間に至てハ雨盆を覆へすが如し。自宅家旧ひ瓦ハ昨冬の地震狂ひして有けれバ 勝手廻り溜りの器置並べ尽しても一面に滝を為して漏滴所不定故、一番多漏の処二戸を並べ置て廂の如くに作り、其先キニ漏り請桶を並べて請留る仕懸を為し、畳悉くぬらして後起し揚るも詮無しや。
名古屋城下のはずれ、古渡村に住んでいた徳義の住居でも、このような状況であった。矢田川の堤防下の成願寺一帯は、この暴風雨によって、大変な騒ぎになっていた。徳義は、光音寺村の半七から聞いた話として八月八日に次のような記述をしている。
当村廿九日、堤内方腹ヨリ吸越水夥しければ、川岸にハ堤に生立し松を切流し、懸水を除き、内方にハ杭を打て裂目に畳又土俵を入て防留る。川底ヨリ田所の面迄ハ一丈も違い低かりし故、堤中腹を吸越せし哉と云、又一説には、去冬地震の破と云、其内に福徳・中切・成願寺の三郷中へ切入て水大に減と云、半七此三郷に頃日中、人足廻し居し小僧庵堤悪水一盃に成りけるを、其時矢田川水低かりければ南へ堤切落せしに、程なく矢田川出水して逆流切途より押入ければ、扨落水入吹貫終に切入し、其水勢三郷を西へ押通り、福徳村聖徳寺構大門の茂林に突付なきれて南へ矢田川方へ押破るる時、其堤に小段新築家二軒を建、民住居するを、其辺低所、家々家財を持運び此家の高みに有を頼みに箪笥・包物山之如く持入たれバ、女ハ遁行て番に男一人ヅツ家に在りし。此家之処、澪と成て押流す。一軒の番ハ三十余の壮者水游して助る。一軒の番ハ老翁成しが得游かざる内、家押出す時、幸柳に留り、乳ぎしひたりて助かるト云。
杭をうち、畳や土俵を入れて懸命に堤防の補強をはかる。水は容赦なく押流れてくる。やむなく福徳・中切・成願寺の三郷に水が落ちるように堤を切る。そうこうするうち、矢田川が出水し、逆流して水が三郷に押し流れてくる。堤防の上に、二軒の新築の家が建っていた。堤防の下の人たちは、この家に家財を運べば安全とばかりに持込む。
番人として、男が一人残った。ところが、この家までもが押流されてしまう。一軒の家の男は泳いで助かる。もう一軒は老人が番人をしていて、泳ぐことができない。柳の木があったので、その木にしがみついていて、この老人も助かることができた。
洪水の恐ろしさを余すところなく描写している一文だ。徳義は、三郷の状況を書く直前に「嗚呼、是去歳冬ハ大地震、今秋ハ暴雨洪水、如何成事ぞ」と感想を述べている。去年の冬には地震、今年の秋は暴風雨と洪水にみまわれた。いったいどういう世であろうかという慨嘆だ。
嘉永六年(一八五三)六月、ペリーが浦賀に来航した。翌年には江戸湾に再航し、和親条約を結ぶことを強く要求した。 この年の四月には宮中で火事が出る。六月には伊勢、大和で大地震が起る、次から次へと災厄がふりかかってきた。 『群書治要』の一節「庶民安レ政、然後君子安レ位」をとり、忌まわしい世に決別する意をこめて嘉永から安政と年号が改められた。
しかし、年号は改まっても、天変地異は静まらなかった。安政元年十一月四日、マグニチュード八・四の東海道大地震が起こり、六百人の死者が出た。十一月五日にはマグニチュード八・四の南海道大地震が起きて三千人の死者が出た。 翌安政二年十月二日にはマグニチュード六・九の江戸の大地震が起き、一万余人の死者が出た。
これらの大地震のうち、東海道大地震では、名古屋地方にも甚大な被害をもたらした。『松濤棹筆』を読んでいると、それ以降頻繁におこる地震に、おびえている人々の様子がよくわかる。徳義は擬音語をおりまぜて、地震によって恐慌をきたしている街の様子を非常にリアルに描写している。安政二年、一月の地震に関する記述を現代語訳にして、紹介しよう。
それにしても嫌なことの続いた年も暮れ、はや大晦日の夜も明け、安政二年の正月をめでたく迎えた。しかし公私にわたり、にぎにぎしい祝賀の儀はとり止めることにした。
四日は役所の仕事始めで、早朝家を出て、三時頃帰ってきた。今日は朝の五時半頃より、雨がしとしとと降り出してきた。年始まわりをして、雨に濡れるのを避け、役所からまっ直ぐ家にもどってきた。家にもどり湯に入っている時、時間は四時頃だと思う。
この時、家がギシリ、ギシリと大きな音をたててゆれ動いた。しかし、鳴りひびく音を考え、逃げ出すこともあるまいと、そのまま家の中にいた。
六日、朝方に雨は止んだ。西風が激しく吹き荒れる。そのうち午前二時頃と思われる。グワタグワタと一震があった。ただし、夜中に三度も地震があったと云うものもいるが、風が激しく、地震があったのに気づかなかった。
今日も一日暮れて食後、七時頃ギシイリギシイリと家がゆれ始めた。もう一度強くゆれたら逃げ出そうと用意していたところ、それ以上余震は起きなかった。
七日、今日は暖かく、格別によい日和である。午後四時頃、鳴り響く音もなく突然ドシーン、ビリビリビリビリ、ドシイン、ビリビリビリビリと地震が起った。昔はビリビリビリメキメキメキとしだいに上り調子に揺れることがふつうであったが、近来はドシイン、メキメキメキ、ドシインドシインと突然下から突き上げてくるようであると人々はうわさしている。
ふたたび七時頃、来客と話している時、メキイリメキイリメキイリと家が長いこと揺れていた。もはや逃げ出す時と火鉢を抱えて外に出た時、静かになった。
八日。朝方より曇。夕方少し前より雨になる。朝の四時頃、突然ドヲウ…と大きな音が鳴り響いてくる。スワこの音では強震だろうと家族の者をたたき起し、雨戸を開けて大騒ぎをしているうちに静まった。その前にも弱震があったと隣のものが話していたが、我家は寝ていて気づかなかった程のものである。前夜より、明け方までに三度地震があった。
まだまだ地震の記述は延々と続く。東海大地震の話題で持ちきりの昨今、『松濤棹筆』を読んでいて、思わず引きこまれ、引用が長くなったようだ。毎日のように起る地震におびえている様子がよくわかる記述である。先に引用した安政二年、七月二十五日の大洪水の記述に「去冬地震の破と云」とあった。去冬地震とは嘉永七年十一月四日の東海道の大地震をさす。この地震の後、十二月二十七日に、成願寺の住職真性坊が徳義を古渡村に訪ねている。地震当時の成願寺村の様子を、真性坊は徳義に、次のように話している。
大地震の日である。成願寺村の前の矢田川は、冬は水が流れていない。仮橋が架かっていても、川は砂地になって、歩いて渡ることができる。
ところが大地震があって、川幅いっぱいに水が満ちて流れている。堤防は中程で決壊した。薄濁った水が湧き出て、流れている。高く立っていた仮橋の橋杭は川底へ引込んでしまった。
川原の砂がところどころ盛りあがって、山のように高くなっている。
今も、そのままの姿が残っている。
私の寺へ久屋町の人がやって来て、百人一首の替歌の狂歌を作った。天智天皇の「苅穂のいほの…」の歌は、作者を天智変動として、
あきれたり苅ほのいほは苫もあらず 我子どもらは露にぬらしつ
蝉丸の「これやこの」の歌は、
これや是ゆるもゆらぬも大地震 死も死たが大坂は関
成願寺、中切、福徳の三郷がいかに洪水や地震にみまわれ、おびえていたかが『松濤棹筆』の記述によって、よくわかる。
すすきの穂が夕日をうけて、赤くそまりながらゆれている。遠く恵那山や御岳山が白い姿をくっきりと表している。ふれあい橋の上からながめる夕日の矢田川の景色は、えもいわれぬものだ。
寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」と言った。奥村徳義の文章を読んでいて、予想される東海地震のことを強く意識した。天災は忘れぬうちにやってくるかも知れない。心しなければならぬと思った。
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