漂着の祠──乗円寺
矢田川が氾濫した時、流れ着いた祠が乗円寺に祀られているという話を聞いた。漂着した祠を神社に合祀するのはよくある話だ。寺に収めるのは不思議な話だと訝しく思いながら乗円寺を訪ねた。
乗円寺の東隣は幼稚園だ。幼稚園との境に、二体の地蔵様が祀ってある。この地蔵様も、川中の路傍にあった野の仏だ。区画整理の時に、この寺に収められたのであろうか。幼稚園から園児の笑い声が聞こえてくる。二体の地蔵菩薩は、園児をいつも柔和な表情で見守っているかのようであった。
乗円寺は白馬山と号する曹洞宗の寺である。創立年代は、不明だ。乗円という僧が開基したので、寺の名も乗円寺と名づけられた。ずっと昔は、天台宗の道場で観音、弥陀、薬師の三尊仏を安置していた。慶長年間(一五九六~一六一五)、永安寺の二代東順和尚が再興して、永安寺の末寺となった。
もともとは天台宗であるので、成願寺、聖徳寺と同じく、この寺も安食重頼をはじめとする安食一族の菩提所であった。
聖徳寺の松村宗哲住職は「福徳の聖徳寺には八龍神社、中切の乗円寺には山神社、成願寺には六所神社と、三郷にはそれぞれ寺と神社があります。寺と神社は大変に近い距離にあります。神社のほぼ直線の北側の位置に寺があります。これは、昔は神仏混淆(こんこう)であったからです。三つの寺は、それぞれ神社と一帯になり大きな寺域を領していました」と言われた。
寺と神社とが同じ広大な領域の中にある。仏の教えと神の教えとを同じ場所で授かることができる。明治元年(一八六八)、廃仏毀釈令が出された。仏法を廃し釈尊の教えを棄却せよという法律だ。狂気の事件が相次いだ。寺院や仏具経文などの破壊運動が起こったのだ。奈良の興福寺では、僧侶の多くは春日神社の神官に変わった。五重の塔が売りに出されるという事件も起きた。今でも、廃仏毀釈のあおりで、岐阜の中津川には寺のない村がある。
三郷の寺と神社は、明治以前は神仏混淆であったのだ。とすれば、矢田川の洪水によって、いづこからともなく流れてきた祠が、寺の一画に祀られていたとしても何の不思議もない。無残にも変わりはてた姿で、うちすてられている祠、それを大切に寺に持ちこみ丁重に祀る。村人の寺によせる愛着があれば、それは自然のなりゆきだ。御堂に安置された二体の地蔵さま。それを祀るのと同じような思いで、漂着の神を迎えたのではないだろうか。
地図
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