風さわぐ──神明社
大木が枝をゆるがせて鳴っている。神明社にある何十本もの大木が、強風に吹きさらされ音をたててさわいでいる。風が和(な)いでいる日には、森から一斉に聞こえてくる鳥のかしましい鳴き声も、今日は聞こえてこない。
石段をあがって、社殿にゆく。社殿を掃除している人がいる。森の中の神社は、一日とて掃除をしなければ落葉にうずもれてしまうだろう。感心して、しばらく掃除をする人を眺めていた。誰にいわれて掃除をしているのでもない。氏子の方が、自分たちの鎮守の森を、自分たちの手で護ってみえる姿だ。
神明社は、中切村の村社である。祭神は天照大神で、創立年代は不詳であるが、安食重頼の崇拝をうけたという古い神社だ。本殿の西側にも小さな祠が二つある。境内を掃除している古老にうかがった。
「あの祠は、矢田川が洪水にあった時に、村に流れてきたのを拾って祀ったものです。川中村は何度も矢田川の洪水にあいました。今、立っている場所が、昔の矢田川の堤防です。この堤防の上に神明社がありました。ごらんのように、かなり高台の上にありますが、川は恐ろしいもので、いったん荒れ出すと手がつけられなくなります。人家が流失する。いや村の神社から墓地まで流失し、村全体が洪水によって消えてしまうこともありました。この祠も、洪水によって漂流してきたのを祀ったものです。天王社として祀っているようです」
古老の言われるように、庄内川と矢田川にはさまれた川中村の歴史は、洪水の歴史といってもよい。宝暦七年(一七五七)五月四日、明和四年(一七六七)七月十二日にも洪水にみまわれた。安永八年(一七七九)には七月二十三日、八月二十五日と二度にわたって水害にあう。天明二年(一七八二)には六月二十三日から八月二十一日の間に四度も洪水が起こった。この被害により、洗堰の工事が始まり、新川が開削された。
しかし、洪水は非情だ。洗堰が完成し、新川が開削された後も、洪水は容赦なくおそってくる。嘉永二年(一八四九)八月一日、同年の八月七日、九月十七日と洪水にみまわれる。また安政二年(一八五五)にも洪水の被害にあう。時代は代わり、明治元年(一八六八)にも五月二十二日、八月二日と水害にあった。
明治元年八月二日の水害は、悲惨な被害をもたらした。この日の朝、守山瀬古の石山寺付近の矢田川堤防が決壊した。つづいて、瀬古と成願寺の境でも決壊した。大水が川中村に侵入してくる。成願寺の人家はすべて、またたく間に流失し、下流の下中切、福徳に漂着した。庄内川も危ないというので福徳の西端で堤防を切ってしまった。
水が福徳に流れこみ、漂着した二十三戸の成願寺の家屋は、流れ去って大野木の堤防に漂着した。福徳に漂着したのは、成願寺の人家だけではない。瀬古の石山寺の墓地から埋めてある遺体が漂着してきた。遺体は木々の枝にかかる。竹林の間にはさまるという状態であった。どの農家の庭にも、柿の木が植えてある。枝には青い柿の実が幾つもなっている。その枝に眼がつき出た、歯がむき出た骸骨がたれ下がっていた。
漂着した遺体の中には、土葬したばかりの新仏もあった。烏が肉をついばみに来て、無気味に鳴きさわぐ。さながら地獄の絵図であった。この時の洪水で六十体の遺体が漂着してきたという。
神明社の高台から北区の街並みを一望の下に眺めることができる。のどかな光景だ。川中村の洪水の被害も、遠い歴史の彼方に忘却されようとしているが、神明社に鎮座する小さな祠が漂着の生き証人だ。小さな祠は、洪水の悲惨さを忘却してはならないと訴えているかのように、おごそかに鎮座している。
地図
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