沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第15講 福徳・中切・成願寺 第1回「矢田川の砂──八龍神社」

矢田川の砂──八龍神社

石垣の上にある八龍神社

石垣の上にある八龍神社

こんもりと茂った森が見える。あれが八龍神社に違いないと思って歩いていく。福徳・中切・成願寺の三郷地区を歩いていて、鬱蒼(うっそう)とした森が見えれば、まがうことなく神社だ。その土地の守り神が祀られている場所を鎮守の森という。三郷地区の神社は、文字通り鎮守の森だ。

丸石が幾つも積み上げられた石垣の上に、八龍神社は鎮座している。 三郷地区の神社には、幾つもの共通点がみえる。まず、いずれの神社も高台にある点だ。成願寺の六所神社、中切の天神社、神明社、福徳の八龍社、いずれも石段を上った高台にある。樹齢何百年という樹木に囲まれた森の中にある。

六所神社、天神社、神明社、八龍社は、ほぼ東西に一直線の位置にある。四つの神社が高台の上に建ち、東西に一直線の位置に鎮座しているのはなぜか。それは、四つの神社が、いずれも矢田川の堤防沿いにあった神社だからだ。なかには神明社や天神社のように堤防の上にあった神社もある。四つの神社を線で結んだところが、矢田川のかつての流れだ。

昭和七年(一九三二)から庄内川に沿って、矢田川を流す付け替え工事が始まった。庄内川と矢田川にはさまれた土地の三郷は、川中村とよばれていた。庄内川と矢田川にはさまれた川の中の村だったからだ。四つの神社がこだかい丘の上にあるのは、堤防の上にあるか、堤防沿いにあった神社だからだ。

大正十二年(一九二三)に刊行された『西春日井郡誌』は、川中村の状況を次のように記している。

今より百年前までは、矢田・庄内二川とも川底大に低く、随て沿岸の堤防も高からざりしを以て、当時川中村の民屋は全部堤下も田圃の間に介在し、屋内に座しながら容易く稲生街道上人馬の往来を見ることを得たりと。  然るに其以前、宝暦(宝暦四年=一七五四)、明和(明和四年=一七六七)の大水を始め、度々の出水と平時に於ける流水の作用とに依り、川底漸く高く、随て堤防を高くすべき必要を生じ、遂には現今の如き大堤防となりしなり。為に川中村民は、殆ど窪地に住することとなりしを以て、現在の如く堤防上に移住するの止むを得ざるに至れるなりと。

八龍神社拝殿と左下に秋葉神社

八龍神社拝殿と左下に秋葉神社

川中村は、庄内川、矢田川という二つの大きな川にはさまれ、いつも水害におびえてくらす村だった。八龍神社の祭神は高卷神で、水の神様だ。奈良の丹生川上より寛永九年(一六三二)二月七日に勧請したという棟札が残っている。龍神は雲をよび、雨をもたらす。日でりの時の雨乞いの神として知られている。

庄内川、矢田川沿いには、八龍神社が多くみられる。龍神は水を支配する。川とともに生き、川のめぐみによって生活をする村人にとって、龍神が怒れば、洪水となり、生命の危険にさらされ、家財を失ってしまう。川沿いの村の人にとり、龍神は生活と生命を守る神だ。村の神として庄内川、矢田川沿いの村々では八龍神社を建立したのであろう。

二十五段の石段を上ると本殿がある。本殿の東側に、立派な石碑がある。御嶽講の明寛行者の碑だ。明寛行者は、俗名丹羽宇兵衛という。名古屋市東区、古出来町の人で御嶽登山の先達だ。安政二年(一八五五)に、霊感を得て岩崎(日進市)に御嶽山より分霊を迎えて、御嶽山(御嶽本教心願講分祠殿)を開いた。

村の明寛行者の教えを受けた信者が、この石碑を建造したのであろう。本殿の西側には、秋葉神社の御堂がある。火災と水害から村を守りたいという願いで建てられたのが八龍神社だ。拝殿の前の砂利をふみしめる。川砂のような細かい、やわらかな感じの砂だ。かつての矢田川の砂ではないか。そんな思いにとらわれ、砂を手にとってみた。

御嶽講の明寛行者の碑

御嶽講の明寛行者の碑

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