沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第10回「災害は忘れぬうちにやってくる──新川洗堰改修碑」

災害は忘れぬうちにやってくる──新川洗堰改修碑

新川洗堰から庄内川を挟んで名古屋駅を望む

新川洗堰から庄内川を挟んで名古屋駅を望む

国道四十一号線の新川中橋から右へ曲がると洗堰だ。道はいちだんと低くなっている。庄内川をあふれた水が、新川に流れこむような仕掛けになっている。

堤防の上に一つの碑が建っている。明治十六年の九月に建てられた新川洗堰改修碑だ。碑文は

明治十一年戌寅六月。修理洗堰之工始成矣

という書き出しによって始まっている。明治十一年、愛知県令の安場保和が黒川治愿に命じて、洗堰改修の工事を施工させ、明治十六年に完成したのを記念する碑だ。

当時の洗堰は

庄内川土砂流出。川底漸高。而雨則暴水溺漲。溢入新川。川之沿村。被其害者。年甚一年

という収態であった。庄内川の川底は流出土砂の堆積によって、上昇し、その結果、豪雨ともなれば、洗堰からあふれた水が激流となって新川に流れこむ。新川の川沿いの村々は年々被害をこうむることが多くなったという状況であった。

新川洗堰堤防の中に建つ新川洗堰改修碑

新川洗堰堤防の中に建つ新川洗堰改修碑

明治十六年の九月に建てられた新川洗堰改修碑

明治十六年の九月に建てられた新川洗堰改修碑

このあたりの碑文を読んでいると平成十二年九月十一日の東海豪雨を思い出す。

新川沿いの村々は、こぞって洗堰の嵩上げを要求する。これに対して、庄内川の川筋の町村は反対の請願をする。反対するばかりでなく、かえって洗堰を低くするように陳情する状態であった。黒川治愿は川沿いの村々を根気よく説得して洗堰を味鋺の堤より九尺八寸(約三メートル)低くする工事を始めた。工事を始めて五カ月で完成した。

以此免其水害者。不独新川沿村而己。海東郡之東部亦然。故各處人民倶共喜焉。

この工事により、水害から免れたのは、新川沿村だけでなく、海部郡の東部の村も同じであった。人々はたいそう工事の完成を喜んだ。しかし、明治十四年の秋に、豪雨により石の堰が決壊した。明治十五年の秋十月には暴風雨によって、またも堰が破られた。新川沿村の人々は、至急堅牢な堰に修復することを陳情した。

明治十五年の十月に工事を始め、翌年の九月に工事は終わった。

嗚呼此工事。其堅牢非復前日之比

この工事の完成によって、洗堰は、今までとは全く違った堅牢なものとなった。

今も洗堰では、明治の時代と同じように工事が行われている。この碑文に書かれている内容は、まったく東海豪雨と同じ状態ではないか。寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」という名言をはいたが、洗堰を見ていると「天災は忘れぬうちにやってくる」という感を強くする。

平成12年9月東海豪雨 庄内川・新川激甚災害対策特別緊急事業完成記念の碑

平成12年9月東海豪雨 庄内川・新川激甚災害対策特別緊急事業完成記念の碑

新川洗堰

新川洗堰

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