上流を見つめる除災地蔵尊──新川と洗堰
国道四一号の庄内川に架かる新川中橋に立つと、西には養老山地が、東には瀬戸方面の山々が霞んで見えている。河原にはゴルフ場があり、大都会の一隅とは思えないのどかで穏やかな風景である。
このあたりでは、庄内川と矢田川は平行して流れているが、二つの川を区切る背割堤を橋からほんの数十メートル西に入った所にお地蔵さんが佇んでいる。お地蔵さんとしてはずいぶん大きなものだ。台座の正面に「除災地蔵尊」、側面には「昭和三十四年三月吉祥」「庄内川矢田川隣接町有志建之」と刻まれている。丈の高い台座の上に立ち、上流のほうをじっと見つめている。お地蔵さんの前には花が生けられているので、今でも人々がお参りしているのだろう。お地蔵さんは日本全国にあるが、災害を除く「除災地蔵」はここだけではなかろうか。お地蔵さんはなぜ川の上流を見つめているのだろう。
名古屋で一番の大河である庄内川は、庄内用水を始めとする多くの用水の水源となり、この川がなければこの地方の農業は成り立たないほどの大きな恩恵を人々に与えてきた。その一方、頻繁に堤防が切れて沿川の人々の暮らしを根底から破壊する凶暴な川でもあった。
水害の歴史を見てみよう。名古屋城が築かれた慶長一五年(一六一〇)を始め、大災害だけでも寛永九年(一六三二)、寛文六年(一六六六)、享保六年(一七二一)、天文四年(一七三九)、宝暦七年(一七五七)、明和二年(一七六五)、明和四年(一七六七)、安永八年(一七七九)……などがあり、この間にもたびたび破堤や溢水を繰り返している。沿川の人々は一生に一回以上の大災害を経験し、数回は川から押し寄せた激流で丹精込めて育て収穫を心待ちにしていた田畑を流され、食べるものにも事欠く悲惨さを味わう暮らしであった。「天災は忘れた頃にやってくる」のではなく、毎度のようにやってきたのである。
そもそも、庄内川がこのような暴れ川であるのは、源流が風化した脆い花崗岩地帯であり大雨が降ると流水とともに土砂が流れ出し、流れが穏やかな平野部にくると沈殿して川底を年々嵩上げしてゆくといった、庄内川の性格によるものである。これに加えて、江戸時代になると、上流の瀬戸や多治見などで陶器産業が盛んになり、燃料の薪を得るための森林伐採が進んで保水力が低下して土砂が流出しやすくなっていった。
また、河口部では堆積した土砂によりできたデルタ地帯を堤防で囲み新田開発が進められた。低平地を流れる勾配の少ない川は流れが滞りやすいが、江戸時代の初めには今の一色大橋の下流あたりで海に注いでいた庄内川は、江戸末期には約四キロメートルも沖に延びて流れが悪くなっていった。
さらに今の北区付近では、矢田川を始め地蔵川、八田川、大山川などの川が庄内川に流れ込んでいる。支川は庄内川の川底が高くなるととも流れが悪くなり、普段のときには排水不良による稲作障害が、大雨の時には逆流した水により洪水が発生するようになっていた。この地は水の脅威に囲まれて暮らす土地であった。
うちつづく水害に、清洲十四か村の総庄屋丹羽助左衛門は新しい川を掘ることで抜本的な対策を行うよう藩に陳情を繰り返したが、ばく大な費用を要するためなかなか採択されなかった。しかし、ついに安永八年(一七七九)第九代藩主宗睦は、勘定奉行であった水野千之右衛門と参政の人見弥右衛門に治水計画の検討を命じた。
水野たちの検討した結果は次のとおりである。味鋺と大野木の村境に庄内川の堤防を一段と低くした洗堰を設けて、庄内川の水が五合(計画高水位の半分の高さ)に達したら大我麻沼に流れ込むようにし、庄内川右岸に平行して海まで延長二〇キロメートルに及ぶ新たな川を掘り排水する。あわせて、これまで庄内川に流れ込んでいた大山川、合瀬川(木津用水)、五条川などを新川につなぎ庄内川の負荷を減らすという壮大な構想である。
この大事業は、当時の尾張藩の御蔵米全部を売り払っても足りない約四〇万両というばく大な費用が必要であり、普通の手段ではとうてい藩の許可は得られない。水野は自分が犠牲になってでもこの大事業をやり遂げる覚悟で、きわめて低額な見積もりを藩に提出し工事を開始した。さらに、工費不足になり工事半ばでの中止がされにくいように、二〇〇か所にも工区を分けて御冥加人夫(村々から義務として出る人夫)を増やし、天明四年(一七八四)に全区間をほとんど同時に着工した。
はたして工事が三分の一も進まないうちに事業費の不足が判明して、藩内では水野に対する批判の声が高まってきた。藩は幕府からの借金や豪商からの調達金でしのいだが、万策きわまり工事は中止、天明六年一〇月一日水野千之右衛門は免職となり閉門蟄居を命ぜられた。しかし、全区間で中途半端に工事が行われてしまっている。完成を心待ちにしている農民たちの声に押されて、藩は再び水野を御普請奉行に任命し工事が再開された。水野の周到な計略どおりはこんだのである。
着工から三年の歳月を経て、天明七年(一七八七)に新川が完成した。これにより洗堰から下流の庄内川は大雨のときに流れる水量が減り水害の危険は大きく低下し、周囲四キロメートルといわれた大我麻沼の排水がすすみ、文化一〇年(一八一三)には大我麻新田が開発された。
水野の多大な功績をたたえるため、文政二年(一八一九)に「水埜士惇君治水碑」が、大代官で学者としても高名な樋口好古の撰文により新川上流端に近い右岸堤防の上(現、師勝町内)に建立された。身分制度の厳しい封建時代に、一家臣であった者の碑を、しかも生存中に建てることは極めて異例である。水野が事業に傾けた執念ともいえる思いと大きな功績が、藩の中枢を担う人々や沿川の農民の心を動かし、このような特別な取り計らいとなったのであろう。碑の建立から三年後の文政五年(一八二二)、水野は八八歳の天寿を全うした。新川のほか日光川の改修など、治水にかけた一生であった。
洗堰の周辺には、ほかにも2つの碑が建っている。 洗堰のすぐ下流、堤防の斜面にあるのは「修理洗堰碑」である。新川開削後も庄内川の川底は年々上昇し、洗堰を越える激流は堰をたびたび破壊した。堰を高くすれば庄内川の危険が増し、低くすれば新川の危険が増す。堰の高さは両川の沿川住民の関心の的であり、堅牢な堰の建設が望まれた。このため明治十六年に当時の愛知県土木課長であった黒川治愿などにより大規模な改修が行われたが、それを記念したのがこの碑である。
もう一つ、蛇池神社に近い新川堤防には「新川堤防改築記念碑」がある。これは、蛇池の北に回り込むように大きく屈曲して北へ伸びていた新川堤防を、昭和十一年に延長七百mほど直線的に築きなおした時の記念碑である。
川は生き物である。流域の変化とともに水や土砂の流出量などが変わり、川の姿も変わってゆく。人々は、変わる川の姿に、なんとか水害が起こらないようにと、その時代時代の知恵と持てる力を投入して治水に努めてきた。多額の費用を投じ、多くの障害を乗り越えて進められた治水工事も、いつかはそれを越える水が来る。人知を尽くしても大自然の強大な力を完全に封じ込めることはできない。
河原でゴルフや野球に興じる人、魚釣りをしている子。普段は菩薩様のように穏やかな表情を見せて人々の心を暖かく包み込んでくれる川は、ひとたび出水すればその下に隠されている夜叉の顔を出し、牙をむいて襲いかかってくる。庄内川と矢田川の背割堤の上に建つ除災地蔵は、今日も上流をじっと見つめている。上流から激流が流れ下ってこないか、見つめている。
地図
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