沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第8回「桜並木──新川堤防改築記念碑」

桜並木──新川堤防改築記念碑

新川堤防改築記念碑

新川堤防改築記念碑

龍神社の傍らの石段を上ってゆく。石段には公孫樹の葉が一面に散っている。

堤防は桜並木だ。昭和三十年、対岸の喜惣治の堤防に、楠町が名古屋市と合併したのを記念して、六百数十本の桜の木が植樹された。比良の堤防にも、喜惣治の堤防にあわせて桜の木が植えられ、今は花見の名所となっている。

桜並木の中に新川堤防改築記念碑が建っている。この記念碑は、昭和十一年四月に、新川堤防改築工事の完工を記念して建立されたものだ。碑文には、次のような意が刻まれている。

江戸時代、庄内川の水源の荒廃ははなはだしく、一度暴風雨があると水があふれ、家屋は流され、人や馬はおぼれ、人々の苦しみは極致に達した。天明の一大治水事業が行われることになった。

天明の工事から二四〇余年が過ぎ、庄内川の時の流れとともに改修が繰り返し行われた。最近は河床の低下が著しく、洗堰を越流する水もむかしのように多くなく、従って比良地内にある一大遊水池を産業啓発の見地から一部改め、地区の将来の発展を計ることは、長年の区民の要望する所であった。

秋、思いもかけず県当局は、新川改良計画をたてるにおよび、旧堤防の屈曲を付替施工することに決め、昭和十年十一月県直営をもって起工し、昭和十一年三月工費三万余円の巨費を投じ、この工事に従事した人夫二万四千余人をもって、延長七〇〇米を完成した。

なお、付帯工事として旧用水路の迂曲を廃し、新堤防に新しく桶管を築造し、かんがいに対しても旧来の面目を一新した。

新川堤防改築記念碑の裏。比良区民一同の文字が見える

新川堤防改築記念碑の裏。比良区民一同の文字が見える

天明の洗堰工事の時、勘定奉行の水野千之右衛門は、着工の許可がおりないことを心配し、工費四十万両かかる所を五万両であると切腹を覚悟して、偽りの計画書を提出した。二百箇所を同時に堀り始めさせ、途中で、工事が中断されることのないように配慮した。洗堰の工事は、尾張藩の一年の収入の三倍ほどかかる大事業であった。

昭和十一年の工事では、屈曲した新川の付替工事と洗堰の遊休地を農耕地とする目的で行われた。工事にかり出された二万四千人の人々は小田井人足(庄内川の堤防が小田井側は低いので、小田井に水が流れる工事をなまけること)であったろうか。

桜並木の左側に新川堤防改築記念碑が見える
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