沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第6回「歯痛の観音さま──喜惣治観音」

歯痛の観音さま──喜惣治観音

喜惣治観音と由来を説明する看板

喜惣治観音と由来を説明する看板

喜惣治を歩いていて、一人の老人と知りあった。最初に出会ったのは、神明社の南側にある天王社だ。祠の前に立って熱心に祈っていらっしゃる。どういう神様を祀った祠であるかを尋ねたのが、知り合うきっかけであった。まず、丁寧な言葉づかいに感心した。

「私は二十五年前に、この地に引っ越して来て市営住宅に住んでおります。地元のことを知らないので、おいおい勉強をしてゆきます」とおっしゃった。その時は、八竜信仰について、あれこれとしばらく話していた。八十に近い年齢であろうか。物静かな温和な印象をうけた。天王社から神明社の境内に入って、本殿の前で、しばらく熱心に祈っていらっしゃった。神明社を出て、堤防の方に立ち去ってゆかれる。うしろ姿が、なんともいえず寂しげな感じてあった。初めて会った人にもかかわらず、なんとなく気がかりな感じがして、うしろ姿を、いつまでも見送っていた。

二度目に出会ったのは、喜惣治観音であった。観音堂の前で、この時も熱心に祈っていらっしゃった。観音堂には、二枚のセピア色の写真が飾ってある。御詠歌を奉納する観音講の方の写真であった。老人は、写真のひとりの婦人を指さして、「この方に、私は喜惣治に来ていろいろのことを教わりました。この方は熱心にお堂の掃除をしたり、花を活けたりしていらっしゃいました。菓子屋をしていらっしゃるので、買物に行ったのが知りあうきっかけでした」とおっしゃる。

この方と言って指さされたのは、加藤捲三さんの奥さんだ。加藤鈘三さんは、今年九十三歳になられる。とても九十歳を越した方とは思われない。五十歳でも充分に通用する元気さだ。加藤さんに聞けば喜惣治のことは何でもわかると聞いていたので、すでに面識がある。

「この方が亡くなられたので、この方の代わりに私はいつもここに来て、お祈りをしています」と言われた。「人生にはいろいろなことが起ります。思いもかけないことが起ります。私は美作の出身で、故郷のことについて定年になったら勉強をして、まとめたいと思っていました。大病を患い入院をして、その後も調子がよくありません。なんとか早くまとめたいと思っていますが、いつになったらできるでしょうか」加藤さんの奥さんが亡くなられた後、観音堂から、神明社と参拝してまわるのを日課としていらっしゃったのだ。

喜惣治観音。奥に喜惣治橋が見える

喜惣治観音。奥に喜惣治橋が見える

観音堂に祀られている観音様は、右手を軽く頰にあてていらっしゃる。中宮寺や広隆寺の菩薩思惟像と全く同じ表情だ。微笑をしているかのような柔和な感じを与える。中宮寺や広隆寺の菩薩思惟像は、悩める衆生を救う慈悲のまなざしでみつめていらっしゃる。

ところが喜惣治の観音さまを見た部落の人は、この観音様は、歯痛で苦しんでいらっしゃると勘違いをした。  歯が痛くて、どうにもならないと顎に手をあてている観音様だと思った。この観音さまに祈れば歯痛が直る。同じ歯痛で苦しみ、悩んでいらっしゃる観音さまだ。この観音さまに祈れば歯痛は直ると多勢の人々が喜惣治にお参りに来るようになった。 喜惣治の観音は、歯痛が直る観音だと近郊近在の人々がおしよせる観音さまになった。

大蒲の如意輪観音は、今は師勝の観音寺に移って大蒲の地にはない。喜惣治の観音は、今も二十五軒の人々によって祀られている。セピア色の写真の観音講の人々は、四月十五日の例祭日に御詠歌を奉納する人々だ。観音をはさみ、右手には法華経の宝塔、左手には妙見堂が安置してある。

老人と別れ、新川の堤防に上り洗堰の改修工事がどのように行われているかを見ようと思った。堤防の傍で、鍬で畑を耕している人がいる。誰かと思ったら加藤鈘三さんだった。九十三歳で、毎日農作業をしていらっしゃることに驚いた。

「新川の堤防には、雑草がぼうぼうに生えていた。雑草は肥料になるというので、場所を区切り、せりによって、その場所の雑草を買いとり、切りとる。農場の人がほとんどせりで落としたね。堤防の下は大藪で、きつねがいる。たぬきがいる。大変なところだった。藪にかすみ網をかけてめじろを捕ったよ。竹藪では竹の子がたくさんとれた。
向こう岸の比良の堤防の桜並木が見えるだろう。こちらの堤防にも、名古屋市に合併した昭和三十年に記念の植樹をした。
稲沢で桜の苗木を三百円で買ってきた。帰りにトラックを運転していた弟が踏み切りをつっ切って、信号をこわして、直し代が五百円もかかってしまった。」

加藤さんの話には、よどみがなく。遠い昔のことも、つい昨日のことのように語られる。

右手を頰にあて歯痛で苦しんでいるようにも見える喜惣治観音

右手を頰にあて歯痛で苦しんでいるようにも見える喜惣治観音

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