沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第4回「生命をかけた水あらそい──久田良木樋門」

生命をかけた水あらそい──久田良木樋門

久田良木川と久田良木樋門

久田良木川と久田良木樋門

大我麻神社の北側に広大な北部市場がある。北部市場の西側には、久田良木川が流れている。大我麻神社を出て、北部市場に向かう。樋門(ひもん)に出る。樋門から流れ出た久田良木の細い流れは大山川と合流している。久田良木川の北は豊山町、大山川の西は師勝町だ。大山川では、サギやカモがのんびりと陽光をあびて、えさをついばんでいる。対岸では釣り人がひとり、釣糸をたれている。

こんなのどかな光景も、いったん暴風雨になると、様相が一変する。大山川は何度も水害にみまわれた。大正十四年八月十四日に大山川が氾濫した時には、豊山村と大蒲新田で、あわや血の海となる一触即発の危機をむかえた。事件の顛末を『名古屋市楠町誌』は、次のように記している。

当日、大山川が豊山村青山字春日寺地内にて決潰、濁水はたちまち豊場西之町を浸水し、大蒲新田一帯を冠水した。この時豊場村民は己が地内の冠水を一時も早く退散さすため、大我麻神社北の古池地内において、両村境の堤防を切らんとした。これを知った大蒲村民は大いに激怒し、これを阻止せんとしたが、機を失し、濁流は遂に滔々と大蒲新田地内に満ち、床上浸水は全戸の八〇戸に及んだ。
それがため村民は大混乱に陥り調度品の始末で不眠不休の努力を続ける一方、豊場村民に対する憤激はひとしお烈しいものがあった。特に農作物は半作という大悲惨事であった。
それがため時の大地主三輪惣右エ門は、大蒲村民を代表して弁護士をして現地視察せしめ、写真撮影等努力し、訴訟を起こさんとしたが、仲介者出現、かつ将来をおもんばかって、両民間に示談して解決するに至った。
この時比良及喜惣治新田村民は炊き出しをすると共に、いち早く救援にかけつけ難民の援護にあたって一同から深く感謝をうけた。

これほど理不尽なことがあろうか。自分の村の水を引かせるために、対岸の大蒲新田の堤防を切ってしまう。切られた方は、たまったものではない。またたく間に、家も田も冠水してしまう。被害は、後の農作物の取り入れにも出てくる。平年の半作という不出来である。弱り目にたたり目とは、まさにこのことであろう。

大山川(左)と久田良木川(右)の合流点

大山川(左)と久田良木川(右)の合流点

大正時代と全く同じ事件が天保五年(一八三三)に起きた。集中豪雨のため大山川が西豊場で決潰した。水はまたたく間に、稲田に流れこんでくる。豊場の農民たちは、一大事とばかりに鋤、鍬をひっさげて大山川に集まってきた。誰が号令をかけたのでもない。大蒲新田の堤防を切らないかぎり、水は豊場に入りこんでしまう。家も田も、このままでは大変なことになる。大蒲新田の堤防に向かい、てんでに農民は走る。鋤、鍬で堤防を切り落としてしまった。水は大蒲新田に流れこみ、一瞬の間に田も家も冠水してしまった。それに比して、豊場の水は、またたく間に引いてゆく。

大正時代の事件の結末は示談で終わった。江戸時代は、事件の中心人物の三十七名は、許しがたい暴挙であるとして牢獄に投ぜられた。獄中で亡くなったものもいる。

豊山町の豊場に万松山常安寺という古寺がある。門前に三界万霊と刻まれた碑が建っている。この碑には、三十七名の事件にかかわった人の名前が刻んである。後の人たちが、自分たちの部落を守るために、命を落とした人として供養のために建てたものだ。常安寺を訪れる人で、今、この三界万霊の碑に目をとめる人は誰もいない。

地図


より大きな地図で 沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」 ‎ を表示