沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第14講 大我麻・喜惣治 第1回「寺のない町──妙見堂」

寺のない町──妙見堂

※編集注:この文章は2003年に執筆されたものです。今回のお話に出てくる妙見堂は現存していないようです。(2012年12月)

喫茶店の窓から外をぼんやり眺めていた。ひどく疲れていた。喜惣治橋を渡り、蛇池公園に行き、その帰りに妙見堂を探して歩きまわっているうちに疲れてしまったのだ。

「妙見堂には、どう行ったらいいの」

珈琲を運んできた店の人に聞いた。

「店の前の道を見て下さい。真っ直ぐ行った所に坂があるでしょう。坂の手前の道を右に曲がるとありますよ」

喜惣治や大蒲は、江戸時代に新田として開拓されたところだ。新田の地域内に坂道がある。意外な返事で、思わず「大蒲に坂道があるの」と聞き返してしまった。

喫茶店を出て、しばらく歩いてゆくと教えられたとおり、坂道がある。自動車で通り過ぎてしまえば、坂だと気づかないほどの緩やかな勾配だ。 大蒲新田という言葉から連想されるのは、一面に蒲(がま)が生い茂っている沼地だ。沼を埋め立て、湿地帯を開拓し、新田にして切り開いたのが大蒲新田ではないか。丘陵地ではない沼地に、なぜ坂があるのか。そんなことを考えながら坂道を上った。

坂の上に、細い道が南北に通じている。この道は、もしかしたら堤防ではないか。大蒲新田と喜惣治新田の境を流れていた大山川の堤防ではないか。大山川が区画整理によって、道路に変わってしまっている。大蒲新田や喜惣治では、住宅地帯に変わってしまって、昔日の面影は、どこからもうかがうすべもない。しかし、大蒲と喜惣治の境を通っている一本の道によって、大山川の川筋をたどることができる。

大蒲新田の字名は、大山川に沿って、上流より五反割、六反割、七反割、八反割だ。五反の田圃のある土地、六反の田圃のある土地の意味であろう。喜惣治は、豊場との境から一番割から七番割までの字名がある。一番割は、一番最初に開拓された土地の呼び名だ。

大蒲と喜惣治の境をなす大山川、その川の堤防が区画整理によって一本の細い道路に変わってしまった。坂の上の道路を歩けば、ここが大蒲の五反割、ここが喜惣治の六番割と字名をたどってゆくことができる。  大蒲と喜惣治との往来を遮っていた大山川が、今は二つの町をつなぐ道路に変わっている。この道路を歩けば、昔の大蒲、喜惣治をたどることができるようになっている。

妙見堂は大蒲の六反割にあった。その昔は、大山川の堤防の上に立っていたことが、緩やかな坂の上にあることによってもわかる。妙見堂の主神は、妙見菩薩だ。妙見菩薩は日蓮宗で尊崇されている神で、尊星王、北辰菩薩とも呼ばれている。北斗七星を神格化したもので、国土を擁護し、災害を滅除し、人の福寿を増す菩薩だ。傍神は鬼子(きし)母神(もじん)だ。鬼子母神は、王舎城の夜叉神の娘で、千人の子を生んだが、他人の子を奪って食べてしまった。仏は彼女の最愛の末子を隠してしまうことによって彼女を戒めた。その後、鬼子母神は仏法の護法神となり、安産、育児などの願をかなえてくれる神になった。

妙見堂の前にある塔には、寄進女人講と書かれている。農作業に勤しむ大蒲の婦人たちが、寄り合いをする場所が妙見堂だ。近所の婦人同士が集まっての隔てのない会話では、家族の問題、や育児の問題も話しあわれたに違いない。さして裕福とも、幸福とも思われるない婦人たちが講をつくり、助け合い、励ましあう。妙見堂は、そんな婦人たちが集う場所であった。しかし、いくら話し合っても救われようのない問題や、人に話すことのできない悩みをうち明ける相手が鬼子母神であった。女人講の寄進した塔を見ていて、そんなことをとめどもなく考えていた。

大蒲や喜惣治は、江戸時代に新しく開かれた土地で、この地には寺はない。檀那寺はみな遠隔地にある。大蒲、喜惣治の開祖ともいうべき人は、林平八だ。林平八は享保二年(一七一七)に甚目寺の菅津から、この地に移住してきて開拓に従事した。林平八の子孫が、代々この地に住みつき、何軒かの分家ができた。これらの家の檀那寺は菅津にあって、大蒲にはない。豊場、師勝の六ッ師など開拓者の在所に大蒲、喜惣治の人びとの檀那寺は分散している。

寺は人々の心のよりどころだ。悩める魂の救済の場所であり、精神を安定させる場所でもある。明治四十四年(一九一一)、大蒲の大野鉄次郎は、部落の人々の心のより所としての妙見堂の建立を思いたった。寺のない部落に、妙見堂を建立した大野鉄次郎の子孫が大蒲に現存していらっしゃる。大野はるさん(八四歳)だ。

大野さんのお宅を訪問した。はるさんの父親は、大蒲万歳の普及につとめた佐藤弥三郎だ。大蒲万歳について『名古屋市楠町誌』は、次のように記している。

明治十五年頃、比良村森川源左衛門より佐藤徳三郎、森川庄太郎(以上大蒲住人)、林鎌吉(喜惣治)等万歳を習得し、例祭其の他年始に余興や祝い(門付)に関西方面まで出張したものであった。明治三十八年頃からは、佐藤弥三郎、佐々木貞次郎、国嶋繁十等が伝授され、現在に至っている。

はるさんは、父親から大蒲万歳を伝授されたのではないか。伝授されないまでも、傍らで父親の練習を見ていて、万歳の間とか、かけあいのこつを修得されたのではないだろうか。はるさんは、実にテンポよく話される。そして、絶妙のタイミングで、合いの手を入れられる。

「大野鉄次郎は私の舅です。明治元年の生まれで、とても信心深い方でした。熱心な日蓮宗の信者で、明治四十四年に部落の方と相談し、小牧から妙見堂を買い、そこに大阪の能勢の妙見山から分身を迎えて祀りました。昭和十六年には、村の出身で、当時天津に居た林一正より寄進の申し出があったので、村中で新しい立派な堂を建てました。今の堂がそれですよ」

妙見堂は、きれいに掃除がされていて、花が活けてある。そのことについて伺うと「二十四軒で、今は守をしています。一日交代で、花を活けたり、掃除をしています。堂の中は八畳あります」とおっしゃる。

大野鉄次郎は実に勤勉な篤実な人であった。日露戦争の兵隊検査の時、小作人であることに、精神的にひどく傷つけられた。一念発起して、二町の田の地主となった。

「しかし、二町の田も戦後の農地解放で取りあげられてしまいました。本家普請も一代で二度も行いました。」

昭和二十八年に大野鉄次郎は亡くなった。  鉄次郎の残した妙見堂は、今も土地の人々の心のより所となって、大切に守られている。