沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第13講 如意界隈 第8回「六ケ池──猿田彦社」

六ケ池──猿田彦社

六ケ池

六ケ池

少年が六ケ池で釣りをしている。橋の上から「釣れるか」と声をかけると素っ気ない声で「一匹も釣れない」という声が返ってきた。「ここには何がいるのか」と重ねて聞くと、「鯉やブラックバス」がいると答えた。

六ケ池は三町二反もある広大な池であった。かつて清冽な水をたたえていた池が、今は橋によって分断され、北側は公園になっている。南側が少年が釣りをしている池だ。池の側には、水の流れていない如意用水が小学校の方へ向けて伸びている。

名古屋空港の南、旧県道の清洲勝川線の北側の地が六ケ池町である。この地は明治時代、山林が連なる荒れ果てた土地であった。味鋺ケ原のきびだんごと呼ばれるほど、楠町一帯は米がとれず、粟や黍を主食とする土地であった。

六ケ池は、黒川治愿による新木津用水の改修工事によって開拓された地だ。明治十二年(一八七九)、味鋺原一帯の新田開拓と木曽川から名古屋へ船を通す目的で始められた新木津用水の第一期の改修工事が行われた。しかし、味鋺原地域への通水量は充分ではなかった。明治十五年(一八八二)一月第二期の工事が始まった。木曽川の取水口に一万一千余円をかけて、東西二門の杁を完成させた。

六ケ池

六ケ池

さらに二万余円の募金に、県費一万円を加え、旧来の幅二間(約三・六メートル)を六間(約一〇・八メートル)とし通水量を倍加させる工事を始めた。如意、豊場、味鋺原等の関係十三ケ村の農民は二万円の募金を負担することができなかった。一万円は県庁より借入れ、残金の一万円は農民たちが、工夫として働く賃金で支払うことになった。

工事はなかなか進捗しなかったが、明治十六年(一八八三)十月に農民の努力は実って木曽川の水は名古屋にまで通じた。新木津用水の改修工事によって、十三ケ村では七百十九町六反十六歩の新田が誕生した。如意村では二十五町六反歩の新田が開拓された。

六ケ池の傍に猿田彦社が祀ってある。猿田彦社は明治三十一年(一八九八)までに、三十三町歩を開墾することを祈念して伊勢から迎えた社である。猿田彦は国つ神の一で、ニニギノミコトが降臨した時に先頭に立って道案内をし、伊勢の国の五十鈴川上に鎮座した神である。容貌怪異で鼻長七咫(咫は上代の長さの単位。親指と中指とを開いた長さ)、身長七尺余と伝えられている。

七月の青々と稲が繁った頃、如意の里では虫送りがあった。虫送りはウンカ祭りともいう。大井神社で豊作を祈念した後、鉦と太鼓をうちならし、松明に火を点じたものをかかげ、六ケ池まで行く。六ケ池の猿田彦社では、虫送りの行列が到着すると、ここでも宮司が豊作を祈願する。池には松明の灯がゆらめき幻想的な情景がかもし出されたという。

六ケ池で少年と別れ、飛行場に向けて車を走らせる。六ケ池の畔から春日井へ通じる道を、かつて御花街道と呼んでいた。  池のほとりに花が咲き乱れる美しい街道であったという。飛行機が空港から飛び立ってゆく。花が咲き乱れていた御花街道は、空港へと変じてしまった。

六ケ池の傍にある猿田彦社

六ケ池の傍にある猿田彦社

地図


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