庚申待──岳桂院
夕陽が境内に差しこんでいる。楠の大木が夕陽に染まっている。岳桂院を尋ねる時には、楠の大木をめがけて歩いてゆけば、しぜんと行きつくことができるであろう。それにしても立派な大木だ。幹まわり二メートル、高さ二十メートルはある。鳥のさえずりが聞こえてくる。大木は鳥たちにとっては、庇護してくれる安全な場所であるにちがいない。安心して、休むことができ、さえずることのできる場所だ。
鳥たちが岳桂院の楠の大木に集まるように、如意の里の人々も、寺になにかと集まっては住職に相談を持ちかけていたことであろう。寺は里の人々にとっては、魂の安らぐ場所であった。魂の救済の場所であった。境内の西側に、永遠の安らぎの場所の広大な墓地がある。おりしも若い婦人と、その母親らしき人が花を持って境内に入ってみえた。桶に水を入れ墓地の中に入ってゆかれた。
墓石が赤く染まっている。墓石の中を歩いて二人は墓地の南端に行かれた。そこには一列に墓石が並んでいる。二人が寺を出られた後、墓石を調べてみると、その一列の墓石は太平洋戦争の戦没者のものであった。なんと多くの人々が如意の里から戦場にかり出され、そして再びこの里に帰ることができなかったことか。戦争が終わって半世紀以上たった今でも、遺族にとっては、墓に詣でるたびに悲しみは強くよみがえってくることであろう。戦争とは、むごいものだ。
「楠の他、うちには松の大木が山門の傍らにありましたが、数年前に枯れてしまいました。寺の古い資料は、庄内川の氾濫で流出して、寺の創建のくわしいことはわかりません。足利時代の終わりに、この寺の前身ができたようです」鶴葉山と号する岳桂院は、曹洞宗正眼寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来、創建は資料がないからわからないと住職は語られる。
「小川、安藤という姓が如意には多いです。それらの人の祖先が郷士(江戸時代、武士でありながら城下町に移らず、農村に居住して農業をいとなみ、若干の武士的特権を認められたもの)として、如意でくらしていました。小川平左衛門や安藤惣右衛門という人が寺の復興を計ってくれたようです。寺は水害に何度もあったので、元禄時代(一六八八~一七〇四)より移転を計画しましたが、なかなか移ることができませんでした。享保三年(一七一八)に、やっと今の地に移転を始めることができました。その年には庫裡を移し、享保八年(一七二三)には本堂が建てられました」
住職は境内に祀ってある稲荷神社の前に庚申塔があると言われた。その昔、庚申堂が、元屋敷にあった。岳桂院が移転した時、庚申堂も一緒に移って来た。庚申堂は寺の隠居所となり、塔は寺の前の三叉路に建てられたという。それが、今は境内に移されてきているということだ。
江戸時代には、盛んに庚申待が行われた。庚申待とは、庚申(かのえさる)の夜、仏家では帝釈天や青面金剛を、神道では猿田彦を祭って、寝ないで徹夜をする習俗だ。その夜眠ると、人身中にいる三(さん)尸(し)(道教で、人の腹中にすんでいるといわれる三匹の虫)が昇天して、その人の犯した罪を上帝に告げ、命を縮めるといわれた。
如意の里に、青面(しょうめん)金剛(こんごう)(庚申会の本尊で、猿の形相をしているもの)を祀った庚申堂がある。そこでは村人が御籠をして、夜を徹して語りあかす。濃厚な人間関係が、かつては、この街に存在していたことのなによりの証だ。
住職と話し終え、外に出た。日はすっかり落ちていた。庚申塔は、土の中に埋まり、小さく庚申と書かれた文字だけが浮かびあがっていた。庚申塔を見て、山門にもどろうとした。
楠の北側にお堂がある。烏芻(うす)沙摩(さま)明王を祀った明王堂だ。 明治七年に女人講が発起で建造したものだという。如意の里のけっして裕福とも、幸福とも思われない女性たちが、女の幸福をかなえてくれるという烏芻沙摩をまねいて祀る。里の女性たちの連帯感が建造した明王堂であるといえるだろう。庚申堂といい、明王堂といい、かつての如意の里の共同体がいかに強かったかをうかがわせるものだ。
山門を出ると半月が夜空に浮かんでいた。
地図
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