沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第13講 如意界隈 第5回「如意の富士山──富士塚」

如意の富士山──富士塚

アパートの前に富士塚の一部が残されている

アパートの前に富士塚の一部が残されている

アパートの前に土を高くもった広場がある。広場の中には、小さな石碑が建っている。石碑を守るかのように、樹々が茂っている。(※編集部注:2012年12月の写真取材時には石碑はなく塚も写真のように一部しか残っていません。)

「昔は樹が鬱蒼と茂っていた。ここは、俺たちの遊び場で、この山に来てよく遊んだもんだ。この辺も住宅が建って、すっかり変わってしまったが、昔は遠くから、この塚が見えたもんだ。如意に残っている塚といえば、今はこの富士塚しかないだろうな」如意の里に生まれて、今年、六十五歳になるKさんは、富士塚に立って昔をなつかしむように語られた。

「すぐ近くに住んでいても、ここにわざわざ来たことはないな、子どもの時の遊び場で、後はすっかり忘れていた場所だ。そこに、大きな木があるだろう。あんな木が、この塚には何本もあったんだ。こんな石段もなかったな」石段の上には「富士山」と書かれた石碑が建っている。「古墳があったと小さい頃、聞いていたが、なぜ富士塚というのかは、知らないな」Kさんは、子どもの頃の遊び場をなつかしむばかりで、塚の由来については、何も知らないと言われる。

『名古屋市楠町誌』は、富士塚について、

大字如意字富士塚地内になる小高い塚である。頂に富士塚権現が祀ってある。由緒等は不明である。古墳の一つとの説が濃い

と記している。由緒等は不明とあるが、丘を造り、頂に富士山と記した碑が建っていれば、由緒ははっきりしている。しかも、名前は富士塚と呼ばれ、字名としても残っている。これは江戸時代に盛んに行われた富士講の人たちの手によって築かれた富士塚である。古墳ではなくて、富士山を模して造られた山なのだ。

白山、御岳山、富士山といった霊峰と呼ばれる山に、人々は講を作り登山をした。講仲間は、強い連帯によって結ばれていて、先達とともに霊峰に登り、修行に励んだ。

愛知県では御岳講が盛んであった。御岳に登るために、白装束に身をつつみ、杖を持った講仲間の人たちで夏の中央線の夜行列車はいつも満員であった。中央線が通っていない頃は下街道が御岳詣の人たちで賑わっていた。霊峰と呼ばれる山の中で、富士山はとりわけ人気が高かった。富士山の八合目で月の来迎を拝すると、月の中に三尊の如来が出現してくると、富士講の人たちは信じていた。富士に登れば極楽に行ったという気持ちになれる。富士講の人気はいやが上にも高まった。

江戸の町では、とりわけ富士信仰は強かった。

江戸とその周辺農村部に、近世中期以降、富士講が大流行したことは、日本の宗教史上、顕著な事実である。富士講は、富士山に対する伝統的な山岳信仰から発したものだが、近世中期に至って、きわめて独創的でスケールの大きな教団に発展した。カリスマ的な教祖、未来を構想した教祖、そして近代的な組織とをもっており、多くの民衆を集めたのである。いわば日本の民間から起こり、組織的宗教に昇華した最初の新宗教というべき性格がそこにある(富田登『江戸の小さな神々』)

如意の里にもカリスマ的な教祖、未来を構想した教祖がいて、富士講を組織し、富士塚を築いたのであろうか。

富士山を模した山を如意の里に造る。土を運び、山を造り、石垣を組む。多くの人々の労力によって初めてできることだ。できあがった富士塚に詣でれば、毎日、富士山に登ったような気持ちになれる。江戸時代、富士山に登ることは大変なことであった。しかし、富士塚があれば、如意にいても富士に登った気分で、富士塚権現に参拝することができる。

富士信仰がもたらした地名が東区にあった富士塚町だ。富士の信仰の強さと講の連帯感によって造られた富士塚の上で、しばらくの間佇んでいた。

地図


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