沢井鈴一の「名古屋の町探索紀行」第13講 如意界隈 第4回「池の堤の池──忠魂碑跡」

池の堤の池──忠魂碑跡

楠小学校近くにある池

楠小学校近くにある池

南側の楠小学校、北側の如意の学習センターに挟まれた一画に広大な池がある。池といっても水は湛えられていない。生活汚水が流れ込み、一条の細い流れを作っている。雑草が生い茂った池の中を生活汚水は流れてゆく。

古老から忠魂碑が建っていると聞いて連れだって池の堤にやって来た。字名で池の堤と呼ばれているこの地は、ここに大きな池があったからだ。如意の交差点の近く、街道沿いに交番がある。古老は立ち止まって、「街道の道幅は、もっと狭かったな。交番の所が、池の北の端だった。字名で池端(いけばた)というのは、ここが池の堤の北端だからだ」と言われる。

池の堤の昭和三十(一九五五)末の戸数は十戸、人口は五十九人であった。池端は十五戸で五十八人であった。字名として、池下という地名も残っている。ここは池の堤の下にあったので、池下と呼ばれている。「今の池の三倍はあったろうな。大きな池だった。」池の名前は、何というのかと尋ねると「如意には、六ケ池、今井池、いしかめ池などたくさんの池があるが、ここの池の名前はない。池の堤の池と呼んでいる」池の堤がある地を「池の堤」という字名にした。字名ができるほどの大きな池なのに、名前がないのは、なんとも不思議なことだ。

交番の横の道を南に向かって歩いてゆく。「この道の下を用水が流れていて、池の堤の池に流れ込んでいた。如意の用水は木津用水より取水していた。飛行場の南側から流れ、六ツ池をつくり、如意の部落を南に流れて池の堤の池に落ち込んでいた」 「ここが杁があったところだ」 水門があるところで立ち止まり、下をのぞき込む。浄化された生活汚水が、池に流れ込んでいる。如意の灌漑用水であった川は、現在では暗渠となって生活汚水を流す川に変わってきている。

池の畔に土が高く盛られた所がある。ここに忠魂碑が建っていたという。池を埋めたて、学習センターを造った時に、忠魂碑は大井神社に移された。大木がそびえている。鳥が大木の上でしきりにさえずっている。切り倒された大木の根が、地面に突きでている。かつては、樹々が生い茂っていた池の畔の小高い丘に忠魂碑は建っていたであろう。池の畔では薄が風にそよいでいる。

「わしの若い頃は、小学校の北側の所に車屋と呼んでいた家があった。車屋というのは水車小屋のことだろう。池に溜まった用水は、また味鋺の境まで流れて生棚川となって新川に注いでゆく。水車小屋は記憶に残っていないが、用水の杁の辺に水車で米をつく小屋があって、それを車屋と呼んでいたに違いない」水車の音が聞こえるそんなのどかな如意のかつての風景を、現在の雑草が生い茂り、薄が風にゆらぐ荒茫とした情景からはうかがうすべもない。

かつて池の堤に建っていた忠魂碑は大井神社に移転している

かつて池の堤に建っていた忠魂碑は大井神社に移転している

大井神社にやって来た。池の堤に建っていた忠魂碑がここに建っている。この碑には、明治二十七、八年(一八九四~一八九五)の日清戦争に従軍した牧野米松他六名、明治三七、八年(一九〇四~一九〇五)の日露戦争に従軍した安藤米吉他十九名と、戦死した安藤澄太郎他三名の名前が刻まれている。

この碑に刻まれている日清・日露の戦役にかり出された如意の農夫たちは、上官として戦場をかけめぐった軍人ではない。兵隊の爆薬、衣服、食料を運ぶ輸卒という下士官たちの碑だ。最も激しい労働を強いられ、最も厳しい戦場をかけめぐって戦死していった人たちの碑だ。百年ほど昔の戦争のことを語る人は、現在ではいない。しかし、名もない兵士たちの生命をかける戦争のきな臭いにおいは、今も世界の各地にたちこめている。

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