椎の木の茂る参道──瑞応寺
山門をくぐって、瑞応寺の境内に入ってゆく。静寂そのものの世界だ。鳥のさえずりだけが梢の間から聞こえてくる。参道の両側には、椎の老木が何本もそびえている。幹まわりは、二メートルはあろう。高さは優に二十メートルは超えている。外は、陽光がきらめいているのに、参道は昼でもなお小暗い。参道の石畳には、高く生い茂った椎の木が影を落とし、木もれ日さえもささない。
参道の正面に本堂がみえる。本堂には陽光が燦々ときらめいている。暗い参道を歩いていて、この道は苦難の人生の歩みで、光り輝く本堂は涅槃の境地ではないかと一瞬思った。そんなことを考えるのは屈託した思いを抱いて、山門をくぐったからだ。本堂の階段に腰を下ろして、鳥のさえずりを聞いていると、何となく心が落ちつくような感じになるから不思議だ。 しばらくの間、ぼんやりと参道をみつめていた。住職が出てみえた。
この寺は夢窓国師(南北朝時代の臨済宗の僧 一二七五~一三五一)が鎌倉から京都に向かう途中、この如意に立ち寄り、貞和四年(一三四八)に建立された寺である。現在は瑞応寺と号しているが、創建当初は瑞竜寺と呼んでいた、とおっしゃる。
「山門の脇に『南朝忠臣石黒重行之蹟』という石碑があったでしょう。その石黒重行が夢窓国師を慕って、草堂を立派な七堂伽藍の寺に変え、自らも出家して、宗円居士と称しました。寺の裏に古くからの墓が幾つかあります。その中央に重行の墓があります。重行の真蹟も寺に残っています」
住職の言われる石黒重行は、高師(こうのもろ)泰(やす)のために、井伊城で破れた後醍醐天皇の皇子宗良親王を越中奈呉の郷の木船の居城に迎えた南朝方武将、石黒重定の孫にあたる人物である。重行も、祖父の重定と同じく勤王の志が厚く嘉慶・康応年間(一三八七~一三九〇)に、数度にわたり勤王の兵をあげた。武運つたなく破れ、越中から奥州へと落ちのびてゆく。
重行は、明徳四年(一三九三)、塩釜明神の尊像を負い、如意の里に来て、姓を長谷川と変えて潜んでいた。その後、尾張の守護斯波氏の庇護をうけて如意、味鋺の領主となる。夢窓国師を敬慕する重行は、瑞竜寺を立派な寺に変え、自らも出家する。没年は永享八年(一四三六)、十二月十七日で、八十八才の長寿であった。
「重行が亡くなった後、戦国時代に入り、寺はすっかり荒れはててしまいました。しかし、この寺に恩人が現れて、立派な伽藍を建てられたのです。それは重行の八代の孫長谷川善九郎重成です。参道の脇の墓地に、重成と、その妻の墓があります」住職と連れだって墓地の中に入ってゆく。墓地の中央に二メートルほどの高い石塔が他の石碑を圧倒して建っている。石塔は上部が細く、下部は広くなっている。この型の石塔は関東方と呼ばれているそうだ。
重成の夫人の石塔は、高さは一・四メートルほど、上部と下部の幅は六十センチ程で幅の長さは変わっていない。「石塔に何と刻んであるのか摩滅していて、わかりません。これは石黒と読むのではないでしょうか」。住職は碑面を、そっとなでられた。塔をなでれば、石の表面がくずれ落ちそうな危うさだ。
「地震が何度もありましたが、この石塔は一度も倒れませんでした。石塔は三百余年、じっとこの地で一度も動くこともなく、倒れることもなく建っていました」住職は誇らしそうに、もう一度石塔をなでられた。石黒重成は、瑞応寺中興の開山といわれる天叔和尚を住職として招いた。京都天竜寺派の末寺であった寺を改宗して臨済宗京都妙心寺派とし、寺の名も瑞応寺と変えた。
石黒重成は、天正十二年(一五八二)の小牧・長久手の戦いで徳川家康に従って手柄をたてた。小牧山をひそかに抜け出て、長久手に向かう家康の道案内人を言いつかったのが重成だ。重成は、小牧から小針(現在の小牧市)、青山(現在の豊山町)、如意へと案内をし、味鋺から勝川に入った。勝川の長谷川甚助の屋敷に入った。家康が「この土地の名は何というのか」と聞かれた。「勝川です」と答えたところ、「これは縁起のよい名前だ。明日の戦は勝利まちがいなしだ」と喜んだという。郷士であった石黒重成は、小牧・長久手の功により、家康の家臣となって仕えることとなった。
墓地の中に無縁仏を集めた山がある。江戸時代の年号の刻まれたおびただしい数の石塔が積まれている。「石黒重成の墓のまわりに、古い無縁仏がいっぱいありました。それを私が片づけて、あの山を作ったのです。石黒家と関わりの深い人たちの墓が重成の墓を囲んでいたのでしょう。石黒家の子孫の方は、今も東京に住んでいらっしゃいます」
瑞応寺を出て、寺の北側にある石黒重行の墓にゆく。墓の中央に木がそびえている。その下にひっそりと重行の墓があった。如意の里の長い歴史を、じっとこの碑は見つめてきたかのように建っていた。
地図
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