にょらい塚──大井神社
にょらい塚を探して、如意の里を歩いた。「にょらい」何とも魅力的な響きだ。楠町には多くの塚が散在している。味鋺には百塚と呼ばれるほど多くの塚があった。如意にも「道観塚」「富士塚」「鳥見塚」など、かつてこの地に存在した塚の名前が地名(字名)として残っている。
「にょらい」「にょらい」とくりかえしつぶやいているうちに、いつしか如意(にょい)という地名とにょらい塚とが重なって聞こえるようになってきた。如意はにょらいが約まったものではないか、ふとそんなことを考えたりもした。
「にょらい塚はどこにありますか」何人もの土地の方に伺った。若い人は、誰もご存知ない。古くからこの土地に住んでいる方に聞いてもわからない。瑞応寺の住職に聞くと「あれは今の如意車庫の所にありましたよ」とおっしゃる。
にょらい塚には樹齢二百年を経た大きな杜松(ねず)の木が塚の主のようにして立っていた。幹は傾斜し、樹皮ははげ、樹の上部は枯れていた。
若い友人のTは北高校の出身だ。「学校に堀がありました。生徒は誰でも知っています」という。北高校に出かけた。体育館の南は樹木が茂っている。明らかに塚の跡だ。にょらい塚の跡は北高校にあった。杜松の老木は、にょらい塚の番人として、塚と共に二百年の年月を生きてきたが、北高校ができると共に姿を消してしまった。
帰宅して『名古屋市楠町誌』(昭和三十二年刊)を繙いてみた。にょらい塚にまつわる次のような伝説が紹介されている。
其一 大井神社の直会(なおらい)社があった所で、その祠には、大直日神、神直日神の二神を祀り、五穀豊穣を祈念したものであるが、此の二神は何時の日か、大井神社に合祀され現在は天照大神を祀る祠がある。
其二 往時このあたりに大洪水があった時、一祠が流れ来たので、土地の人はそれをこの地に祀った。如意に来たのであるから如来と名付けたと言う。
其三 如来とは一名、農来とも言うべきで、昔この地の大臣、民情視察のため此の地に立って具に農耕の様子を眺めたと言う。その記念に一祠を建立、農来と名付けたと言う。
其四 一名この塚の名を朱千樽と呼ぶが、これは地下に朱がたくさん埋めてあるため、かく称え伝えている。これは古墳の一つで、その棺や人の姿を腐朽せしめないため、朱をその周囲に埋めたもので、それがたまたま露出し、郷人驚いて朱千樽のうわさが出たという。
以上の如く諸説があるがいずれが真ともうけとり難いが、誰一人それを究明しようとしない所にこの塚の価値がある。又この塚は腫物に霊験があるとて、参詣者が今尚相当ある。その他、如意で旱害が起った時、若い娘を生贄にして祭った所だという説もある。霊験あらたかに雨はすぐに降り出した。 如意に来たから、如来(にょらい)、それはまた農来ともいうべきだという説は、にょらいの話源説としては面白いが、伝説とはいいがたい。
にょらい塚が豪雨のために盛った土が流れて、豪族を葬った棺が出てきた。その棺は朱色で彩られていた。にょらい塚から出てきた豪族の棺の発見は、まるで、エジプトの王家の墓が砂漠の中から出てきた時のようなロマンではないか。「朱千樽」とは、朱千樽の樽は当て字で、朱が満ちあふれている意の「朱千足る」のことであろう。 にょらい塚にあった直会(なおらい)社は、大井神社に合祀されているという。
『広辞苑』(岩波書店)で「直会」の項を引いてみる。ナオリアイの約。斎(いみ)を直って平常にかえる意。神事が終って後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴。また、そのおろした神酒 農耕が終わった後、部落の人たちが塚に集まり、豊作を感謝し酒宴をくりひろげる。その直来をにょういと呼んでいたのであろうか。
塚の上からは取り入れの終わったばかりの田が広々と続いているのを見わたすことができる。それは往時の如意の里の風景であった。
直会社を尋ねて大井神社に出かけた。大井神社は、延喜式の神名帳に記載されている由緒のある神社である。祭神はウズアメノミコト、ハヤアキツヒコノミコト、ハヤアキツヒメノミコトの三神である。明徳四年(一三九三)、南朝方に属し、勤王の兵を挙げた石黒重行が奥州から如意の里に塩釜六所大明神を帯同して落ちのびて来た。その時、猿田彦命、豊玉彦命等の六所大明神は大井神社に合祀された。
大井神社の前の道を、ひっきりなしに車が通り過ぎてゆく。境内に一歩足を踏み入れると、外の喧騒が信じられないほどの静けさだ。直会社は、住吉社、塩釜社等と並び境内の東側にひっそりと祀られていた。この社から北高校の体育館が見える。直会塚に向かって、この村から参拝をしたという。
境内に大きな石碑が立っている。昭和三十一年(一九五六)、如意の獅子芝居が名古屋市の無形文化財に指定されたのを記念して建立されたものだ。如意の獅子芝居は遠く安政年間(一八五四~一八六〇)に、村の若者が丹羽郡佐野村の師匠の家に通って習得したものだ。獅子芝居とは、忠臣蔵や阿波の鳴戸、朝顔日記など有名な芝居を主役が獅子頭を被って演じるものである。毎夜、青年たちは集まって稽古に励む、稽古に参加しない若者は村八分にされたという。厳しい掟のもとで、伝統の獅子芝居は連綿として続いてきた。無形文化財に指定されたのはよいが、演者が老齢化し、いつしか獅子芝居はとだえてしまった。
大井神社の近くに住む山田勝さんは、楠小学校のPTA会長を長く続けていらっしゃった。「私のおじいさんが獅子芝居で笛を吹いていました。無形文化財に指定された記念に演じた時のテープがありました。小学校でなんとか、獅子芝居を子どもたちが引き継いでくれないかとテープを持って頼みに行きましたよ」獅子芝居がとだえたことをしきりに残念がってみえた。
地図
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