夫婦椿──味鋺神社
平成十五年十月一日、味鋺神社の縁起を記した立札の除幕式が行われた。味鋺神社は『延喜式』の「神名帳」に記されている由緒ある神社である。立札には、延喜五年(九〇五)に勅をうけて調査が始められ、延長五年(九二七)に国の神社として指定された式内社であることが記されている。
庄内川の堤防の下に、今はひっそりと味鋺神社はたたずんでいる。しかし、立札を読めば、千年余の昔から、この地にあって多くの人々の崇拝を受けていた神社であることがわかる。祭神はウマシマジノ命である。ウマシマジノ命は神武天皇期の武臣で、近衛の将として殿内を守った命である。物部氏の祖先であると伝えられている。味鋺の地が古くから開けていた地であることが、ウマシマジノ命がこの神社に祀られていることによってもわかる。
古い神社にふさわしく古木が何本もそびえている。樹齢何百年という楠の大木もある。神社の東側に小路がある。小路を北に歩いてゆくと竹薮がある。おそらく、かつては味鋺の地にはこのような竹薮が無数にあったであろう。竹薮の傍らの細道は、部落と部落をつないでいた道だ。宅地開発によって、味鋺もすっかり変貌してしまったが、味鋺神社の傍らにあるこの竹薮だけは、昔のこの地の名残りを感じさせてくれるものだ。
竹の葉が風にそよいでいる。葉ずれの音が聞こえてくる。通る人もまれな竹薮の小道は、昼でも小暗くて無気味だ。その小道を通り、味鋺神社の境内に入ってゆく。百度石がある。いったい、どんな思いで薮の中の暗い道を通り、この神社に詣でたのであろうか。真夜中、はだしで正殿と百度石との間を何度も往来をして祈りをささげる。百度石を見ていると、月光をあびてひたむきに信心をささげている人の姿が浮かんでくる。
社務所の南側に、池がある。池といっても水は、一滴もたたえられていない。池の中には橋が架けられている。清正橋だ。清正橋は、加藤清正が名古屋城を築城する時に、小牧の岩崎山から大石を運搬するために架けた橋だと伝えられているものだ。この石橋は神社の西南百米ほどの所にあった小川に架かっていたものを、昭和五十二年(一九七八)に、味鋺神社に移したものである。 北区には清正橋の残石だと伝えられている石が数多く残っている。別小江神社、清学寺、金城小学校と清正橋の残石を見ることができるが、橋を復原してあるのは、味鋺神社だけだ。
池の中央に杭石(橋脚の用をなす石)が三本建ててある。石は割ったままの素朴なものだ。その上に二本を継ぎあわせた桁石(橋脚の上に置かれた石)が架けられている。石の幅は約一尺六寸(約四十八センチ)、長さは約五尺(約一メートル五十センチ)である。桁石は全部で六枚だ。加藤清正が請け負った名古屋城の天守閣の台誡の大石には、約十個の岩崎石が使われている。味鋺神社の石橋も、そんな関係で清正橋と呼ばれるようになったのだろうか。
一説には、岩崎山の石ではなく、志段味産の花崗岩であるという。名古屋城築城に使われた石材は、ありとあらゆる所から集められた。味鋺、味美には数多くの古墳が残っている。古墳の石槨には、志段味産の花崗岩が使われている。その石が清正橋に使われたのではないかという説だ。
社務所の横に椿の大木がそびえている。固く結びついた根元の株から、椿の木は二つの枝に分かれている。この椿は、縁結びの椿であると言われている。神社には、椿にまつわる次のような伝説が残っている。
村の娘が使いに出かけて、用をすませ、家路を急いでいた。空が急に暗くなり、一雨降りそうな気配であったからだ。味鋺神社の前に来ると、大粒の雨が降り出してきた。娘はあわてて神社にかけこみ、椿の大木の下で雨やどりをした。
ほっとしていると、ひとりの若者が、雨にうたれてかけこんできた。 無言で、二人はしばらくの間、降る雨を見るともなく見ていた。
突然、雷鳴がとどろいて、稲妻が光った。娘は思わず、叫び声をあげて男にすがりついた。男は驚いたが、娘の恐怖をやわらげるように、そっと娘を抱いていた。
雷が止んだ。娘はあわてて男の胸元から離れた。赤い顔をして、あわてて「すみません」とあやまった。雨が止んだ後には、すっかり二人はうちとけていた。
次の日にまた椿の木の下で逢う約束をした。 椿の木の下で出会った二人は、結婚をして幸福な人生を送ったという。
いつしか、この椿の木は縁結びの木であると言われるようになった。良縁に恵まれるようにと願いに来た人々のひいたおみくじであろうか。いくつものおみくじが椿の木に結ばれていた。
地図
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