薮から出てきた神獣鏡――白山薮古墳址
保育園の庭から、子供たちのにぎやかな笑い声が聞こえてくる。子供たちは、片時もじっとしておれないようだ。かしましいこと、このうえもない。かつて、この保育園の地は、一面の薮におおわれていた。薮の下には古墳が埋もれていた。味鋺百塚と呼ばれるほど多くの古墳がこの地にはあった。しかし、あらかたは盗掘されてしまい痕跡をとどめているものはない。
薮の下に古墳が埋もれているとは、誰も気づかない。古墳は長い眠りからさめることもなく、薮の下で悠久の時を過ごしていた。しかも、この薮は長く味鋺神社の社有地になっていた。薮の中は分け入ってゆく人もいなかったことが古墳が人目にふれなかった要因であろう。
昭和二十五年(一九五〇)九月、神社の近くに住む人が家の普請をするために薮の中に入って、壁土を得ようとした。薮を掘り赤土を運んでいた。掘り進めていると土師質(素焼の土器)の板数十枚を重ねた槨(棺を入れる外箱)が出てきた。この古墳は石槨ではなく、粘土郭古墳であったために、根を張った竹が、古墳を護るようにしておおっていた。
発掘は九月十一日から二十九日までの十九日間南山大学の考古学教室の手で行われた。発掘の内容は『新修名古屋市史』(第一巻)によると次のとおりである。
庄内川右岸の自然堤防上に立地する古墳で、昭和二十五年の調査時に、直径二〇メートル、高さ四メートルほどの墳丘が残っていた。その西方約一〇メートルの場所に、高さ一・五メートルほどの土の高まりがあったため、前方後円墳とする意見がある。埋葬施設は、長さ二〇八メートル、幅〇・六メートルの木棺を粘土でおおった粘土槨で、その両端に、窖窯によらない有黒斑焼成の廢(土を焼いて方形または長方形の平板としたもの)を積んで壁をつくっていた。木棺内からは、重ねて置かれた三角縁神獣鏡、変形四獣鏡、内行花文鏡と、一連の状態の管玉(くだたま)・勾玉・切子玉・棗玉・小玉などが出土した。さらに粘土槨の外には、同種の廢で設けられた長さ三メートル、幅〇・三メートルの副室があり、鉄製の直刀・剣・鏃が出土した。 四世紀末から五世紀初頭の古墳と考えられているが、甕または壺の底部付近とみられる「須恵器片」が排水施設で出土しているため、時期の比定には流動的な要素が残る。
出土品のうち注目されるのは、三角縁神獣鏡であろう。三角縁神獣鏡は舶載鏡(舶来つまり中国製の鏡)で縁の断面が三角形で、図柄として神獣が描かれている鏡をいう。『魏志』倭人伝の中にみえる邪馬台国の卑弥呼が、魏の明帝から贈られた「銅鏡百枚」の三角縁神獣鏡であると考えられている。
邪馬台国はどこかという論争が過去に何度もはげしく争われた。明治四十三年(一九一〇)に京大の内藤湖南が大和説をとり、東大の白鳥庫吉が九州説をとって、両者相ゆずらぬ論争を戦わした。それ以来九州説、大和説とも、さまざまな根拠をあげて論争をくりかえしている。大和説をとなえる学者の中には三角縁神獣鏡を根拠として取りあげている人もいる。京都大学の小林行雄は、日本各地の古墳から発掘された三角神獣鏡の分布状態をこまかく分析して、邪馬台国は大和であると結論づけた。
族長のシンボルとされている三角縁神獣鏡が味鋺の白山薮から発掘された。神獣鏡の他にも管玉・勾玉・切子玉などが発掘されている。これらの玉類は首飾りなど族長の身体を飾るものだ。相当有力な族長が、味鋺の地に存在していたことが白山薮古墳の発掘品によってわかる。では、その族長とは誰であろうか。『名古屋市楠町誌』は次のような説をかかげている。
刀剣や鉾などの武器類が二十余点も出土している処を見ると、物部氏関係の塚とみたいのである。ことに味鋺神社の祭神が可美真乎命であるとせられることも注意をひくのである。こういうことから考えると、この味鋺の原の百塚と称するのも、物部氏関係の氏族の蟠踞していた遺跡であると考えたいのである。物部天神や味鋺神社はおそらく尾張における物部氏最初の氏神であったであろう。
味鋺駅を過ぎると左手にこんもりと茂った森がみえる。二子山古墳である。二子山古墳の傍らに白山神社が建っている。ここに物部天神が合祀されている。味鋺・味美の一帯を物部氏関係の氏族が支配していたのであろうか。とすれば畿内の支配層と結びつく三角縁神獣鏡が、熱田や古渡などの古墳から発掘されず、白山薮古墳から発掘されたことも首肯できる。
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