弁天様の社──深島神社
深島神社は、もとは弁才天、あるいは深島弁才天とも呼ばれていた。
深島は、柳原の西北にある、この地の古い地名。弁才天は七福神の一つとして福徳賦与の神として信仰されている女神である。江の島、宮島、竹生島、大和の天の川、宮城の金華山は五弁天と称されている。五弁天の祀られている地は、江の島、宮島、金華山は海辺、竹生島は湖、天の川は川辺である。水のあるところに祀られているのは、弁才天が河川を神格化したものであるからだ。深島の地は、もともとは沼地であった。こんなところからも弁才天が勧請されたのであろうか。
祭神は『北区誌』は宝徳二年(一四五〇)に九州の宗像神社より勧請した田心姫命(たきりひめのみこと)としている。『名古屋市史』(旧本)は祭神は湍津姫命(たぎつひめのみこと)としている。さらに『尾張志』によれば、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)であるとしている。『尾張志』は市杵島姫を主神とする根拠を、次のように記している。
深島というのは、筑前国宗像郡田島村の宗像神社の奥宮のある地である。武島は湍津姫命の御名よりとった地名である。したがって武島社は湍津姫命、深島社は市杵島姫を祀っているのである。
いずれの説が正しいかは、わからないが三神とも宗像神社に祀られている神である。深島神社には稲荷社、牛頭天王社、荒神社、石神社の四社が合祀されている。稲荷社は八代藩主宗勝の第六子、松平藤馬が江戸より勧請して宝暦六年(一七五六)二月に社殿を柳原御殿内に建立した。牛頭天王社も、宝暦十一年(一七六一)二月に遷宮をして御殿の中に祀った。
藤馬が亡くなった後、御殿の主人となった松平掃頭守が深島神社に二社を合祀した。荒神社、石神社はもともと名古屋城の内に祀ってあったが、元禄七年(一六九四)藩主の命によって柳原祭場殿の側に遷座した。
明治十一年(一八七八)に深島神社に合祀された。柳原祭場殿は寛文四年(一六六四)、二代藩主光友が東照宮詞官吉見幸勝に命じて、京都吉田の祭場をまねて造営したものである。天下安全と国内平穏を祈る神道の祈念場であった。明治になり、いつしか祭場殿も田畑に変わってしまった。明治四十一年(一九〇八)田畑に変わった祭場殿の東南の地に全国初の高等尼学林が誕生した。尼僧の修行の地も空襲で焼けてしまい、覚王山日泰寺の側に移転をした。
深島神社の西側を走る道路の下を、かつては御用水が流れていた。いつしか埋められてしまい、今はその痕跡を尋ねる術もない。
地図
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