広小路の夜を照す粋な明り
地下鉄伏見駅を出て、広小路を東に歩いてゆくと南側に電気文化会館がある。ギャラリーで展覧会を見たり、喫茶室でお茶を飲んだりする人々で、いつも大変な賑わいをしめしている。
電気文化会館が建っている地には、かつて名古屋電灯株式会社があった。電気事業草分けの地を顕彰して、電気文化会館は名古屋電燈株式会社の跡地に建てられたのだ。始めて名古屋市内に電燈が灯ったのは、明治二十二年十二月十五日のことだ。
『百年むかしの名古屋』は、当時の様子を次のように記している。
本町、玉屋町、鉄砲町など四十一ヵ町に電柱三百九十一本が立てられ百二十戸の家に四百燈の電燈が灯った。十燭光で深夜十二時までの半夜燈が一ヶ月一円二十銭、午前二時までの深夜燈が一円四十銭、翌朝までの終夜燈が一円八十銭であった。電球使用料は一ヵ月五銭、電球を割った時は一円十銭の弁償金をとられた。当時白米一升が七銭、うどんそばが一銭の時代である。
当時の名古屋市の戸数は四万八千四十九戸、それに対する電灯数四百戸は、百二十戸にようやく一灯という状態であった。三十年後の大正八年の名古屋市内の戸数は九万七百十七戸、それに対して点灯数は二十三万千三百八十一灯であった。一戸あたり平均二灯半、電灯がいかに短期間に普及していったかがわかる数字だ。
明治二十三年一月十日、千歳座で名古屋電燈株式会社の竣工式が行なわれた。式場の前には、かんなくずでアーチが造られた。その中に電灯を点し、道ゆく人々を驚かした。式場の中には数百個の電灯を四方の天井柱から延いて点した。舞台の下手におかれた大きな鉢に植えられた松の木には、綿で造られた雪が飾られていた。その雪の中から電灯が光る趣向は、満場の喝采をあびた。
電灯の明りに始めてふれた人は、皓々と光る、その輝きにさぞかし驚いたことであろう。 電灯を目ざとい商人は、さっそく宣伝に使い始めた。広小路本町角の菓子屋日の出軒が、二十三年正月の店頭装飾に電灯を使用した。松と竹のアーチを造り、そこに電灯を十個つけ、梅の花に模したのだ。これを見物する人々で、日の出軒の前には黒山の人だかりができた。
名古屋電燈株式会社は、政府より旧名古屋藩士族に貸し与えられた七万五千円を資本として、堀川端の水主町に明治二十一年に創立された。社長は三浦恵民である。
愛知県衛生課長の丹羽正道、その甥の丹羽精五郎が発電機を使い、電灯を点火する実験を何度もくりかえした。実用化できることを確信して二人はアメリカに機械の買い付けに出かけた。アメリカではエジソンに会い、指導をうけた。さらにドイツに飛び発電機やボイラーなどの資材を購入して帰国した。
『名古屋電燈株式会社史』は「開業当時は、本社の事務員僅に三名にして、三浦社長自ら雑務に当り、甚しきに至っては、備品の購入にすら奔走せざるべからざるものありたり。当時三浦社長の報酬僅に金二十五円なりし」と記している。
水主町より本社の社屋が、電気文化会館の建っている地に移ったのは、明治二十一年十一月二十四日のことだ。
『名古屋電燈株式会社史』は、新社屋の地について、次のように記している。
毛利寅三氏所有の家屋庭園及び長屋は敷地にして、その頃温泉場経営中なりしもの三百五十九坪一合二勺を総代金二千三百円、一坪の単価家付金六円二五銭の割合を以って購入し、温泉場は之に修繕を加へて事務所に充当し、庭園の樹石及び長屋を取払ひたる跡には、当時のいわゆる電灯中央局なる発電所を建築するに決せり。
毛利寅三が経営する温泉場がどのようなものであったかは、わからない。銭湯のようなものであったろうか。それを取りこわして名古屋電燈の新社屋が建てられた。
明治四十三年の関西府県連合共進会場の鶴舞公演のイルミネーションは、名古屋電燈株式会社が長良川発電所から送電をして、点火する手はずになっていた。長良川発電所の水路や機械工事は大巾におくれていた。開会前日の三月十五日に、やっと送電を開始し、午後七時半に各館のイルミネーションが順次に点火された。この時、名古屋では次のような歌が流行した。
清き長良の水上に 築き上げたる発電所
あれが名古屋の夜を照す
粋な明りの元かいな