納屋橋の運河遺構
昭和の広重と謳われた川瀬巴水(一八八三~一九五七)が昭和十年に描いた堀川の版画がある。堀川を描いた木版画は、巴水の作品以外に見たことはない。非常に貴重なものだ。 巴水の絵は、夜空に輝く星が耿々と堀川を照らしている図だ。無人の石畳の上は、月明かりのために真昼のように明るい。対岸には商家の蔵が立ち並んでいる。船着き場には、一隻の船が繋がれている。清澄な絵だ。
生涯を通して風景木版画の制作に専念した巴水は、全国至るところを旅し、各地の名所を数多く描いている。名古屋の街で彼の心をとらえた場所は、納屋橋の東岸の風景だ。 彼の旅情をかりたて、抒情味あふれる作品を描いた場所は、現在は劇団四季や風月堂の菓子店となっている。
時の流れは、堀川の流れを変え、周辺の景色もすっかり変えてしまった。 この一枚の木版画を見ているだけでも、当時の堀川端の光景が髣髴として浮かんでくる。木版画には、堀川から引かれた運河が描かれている。運河には橋が架けられている。当時の納屋橋川畔には倉庫が立ち並んでいた。運河は堀川から運ばれた荷物を、倉庫に入れるために掘削されたものだ。
平成十八年三月、納屋橋川畔の護岸を整備する過程で、繁茂していた樹木を伐採した。切り取った樹木の下からは、運河の遺構が姿を現した。人造石で固められた石積みの運河は、対岸から、その全貌をはっきりと見ることができる。取り壊された長屋の下に埋もれ、伐採された樹木の下に隠れていた運河が、何十年ぶりかでその姿を現したのだ。
運河が掘削されたのは、明治四十年のことだ。東海倉庫は、愛知県から払下げを受けた天王崎町、竪三ツ蔵町の一万五百余坪(約三万五千平方メートル)に及ぶ広大な地に、倉庫の建設にとりかかる。この土地は江戸時代は尾張藩の藩倉があり、明治時代には監獄になっていた地だ。東海倉庫は堀川から敷地内へ、T字型の私設運河を掘削する。堀川での荷物の積み下ろしは、他の船の通行の妨げとなるからだ。『愛知県写真帳』に当時の運河の写真が載っている。立派な石組みの運河、そして幾棟もある倉庫、運河には三隻の艀舟が浮かんでいる。
『愛知県写真帳』には、東海倉庫の対岸にある水主町の名古屋倉庫の写真も載っている。名古屋倉庫が完成したのは、四十年の十一月だ。堀川は二大倉庫の対峙する場所となった。
明治四十年は、名古屋港が国際通商港として指定され、二号地で十一月に開港式がはなばなしくあげられた年だ。三十五年の四号地の築港工事から、三十八年の二号地の埋立ての完了、埠頭の建設、さらに約十三万五千坪に及ぶ一号地の埋立てもこの年には完了した。
東海、名古屋の二大倉庫は、国際通商港となった名古屋港からの荷物を堀川の水運を利用して名古屋の町に運ぶ。その拠点となったのが納屋橋川畔であった。 後に、二つの倉庫会社は合併して東陽倉庫となる。