沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」補講 猫飛び横町からおから猫 第3回「猿面横町」

猿面横町

大須観音の仁王門越しに豊竹小路をのぞむ

大須観音の仁王門越しに豊竹小路をのぞむ

俗名がいつしか正式の通りの名称となったのは、赤門通り、仁王門通り、万松寺通りだけではない。伏見通りから東に二本目、大須通りから大須観音に入ってゆく道がある。豊竹通りだ。この小路の由来について『大須大福帳』は

文明館の西隣佐藤洋品店の横を南へ入り東側の草津温泉の南横から文明館の裏に入った処にお稲荷様があった。豊竹稲荷大明神と云ったので、あの通りをいつの頃からか豊竹小路と呼ぶようになった。

豊竹通りのレストラン「とん馬」の奥さんに豊竹稲荷について聞いてみる。「私は昭和二十七年に、こちらに来たので豊竹稲荷のことは知りません。前の通りがお稲荷さんから付けられた名前であることも初めて聞きました」と言われる。この豊竹小路に大正時代、義太夫の竹本二葉太夫が住んでいた。二葉太夫は幼い頃から盲目であった。日出町に住み、大須観音の本堂の石段に腰を下ろし、義太夫の弾き語りをしていた。二十五歳頃、豊竹小路に引き越して来て弟子をとり、教えるようになった。晩年には鶴沢綱弥と改名した。現在の豊竹通りからは粋な三味線の音は、聞こえなくなってしまった。

豊竹通りの東の筋が弁天通り。『大須繁昌記』には「七つ寺本堂の北に弁財天を祀ったお堂があった。殆んど人に知られて居なかったが廓の人達がよく参詣しているのを見かけた。このお堂の直ぐ裏の通りだから弁天通りと名を付けたのだ」と書かれている。この通りの左側に善光寺がある。現在はビルに変わっているが、道に面して小さな祠が建っている。弁天通りの東の筋は文長通り。この通りの名前は寄席の文長座があったので付けられた。

俗名が豊竹通りや弁天通りのように正式の通りの名称となった小路もあれば、かつての俗名が使われなくなり、別の名称となった通りもある。浅間神社から大須観音に通じる大須通りは、かつては浅間小路と呼ばれていた。昭和三十一年『毎日新聞』の紙上に八月から九月にかけて「大須」が特集として連載された。連載の十九回目に「うまいもの横丁」の看板が戦前の浅間小路にかかっている写真が載っている。今も浅間神社の界隈は、飲食店が軒を並べ大変な繁昌をしている。戦前の行列ができた店を紹介しよう。変わった店では鼠茶屋。鼠を一匹も殺さなかったので、客が酒を飲んでいる下を鼠がチョロチョロとしていた。

雷焼は、主人の山田宗助が店の前にすっ裸になって売っていたので評判になった。今も当時から商売を続けているのがババ天とやっこ。ババ天は、お婆さんが一人で天プラをあげていたので、この名前がついた。上質のエビの天プラが自慢である。「大須通ればやっこが招く」のうなぎのやっこは、大正時代、当時七、八十銭だったうなぎ丼を三十五銭で食べさせたので行列のできる店になった。大正十五年には、共通映画鑑賞券とうなぎ丼あわせて五十銭で売り出し人気を博した。花新の長女、お作は後に文部大丞となる田中不二麿の妻となった。

門前町から裏門前にぬける万松寺通りを樅の木横町と呼んでいた。『門前町史雑記』は、樅の木横町のことを次のように記している。

門前町通りの東北角に、直径一丈斗りの老大樹の樅の木ありし。(尾張名所図会に織田信長公手植のあらら木とあり)もと、此所総見寺の入口なり。此樹、幹根蟠屈枝葉繁茂して、道路上へ梃出し、交通の障碍をなせり。或時将軍上洛の挙あり。先発者此樹枝を伐除せんとせしも衆議卒に之を敢てせず。幕府の権勢も伐採する事能はざりし名樹なりし。明治三十一年枯死せり。三十二年、所有者伐採して、清州城跡保存会へ寄付せり。該会にては此の木材にて信長公の像を彫刻して、特別会員に頒与せり。

名樹に敬意表し、もみの木横町と呼んでいたが、名樹が枯れれば、自然と俗名も消えてしまった。

愛知県商品陳列館は明治末期に商工業の振興を目的として大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。主に愛知県の工業製品が陳列されていた。昭和9年(1934)に取り壊された

愛知県商品陳列館は明治末期に商工業の振興を目的として大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。主に愛知県の工業製品が陳列されていた。昭和9年(1934)に取り壊された

戦前に発刊された愛知県商品陳列館の絵葉書を見ている。なかなか立派なものだ。この建物は明治十一年に工芸博物館として建てられたものだ。明治四十三年に愛知県商品陳列所と改称した。敷地は六千二百三十八坪もある広大なものであった。この陳列館の中に日本三茶席のひとつ猿面茶席があった。猿面茶席について『裏門前町史』は、次のように記している。

猿の秀吉に似た床柱、信長公がつけた猿面茶席は今鶴舞公園の通天閣の傍に優雅な姿を留めて居る。此の茶席は今より三百五十年前清洲城にあって、天下を風靡せんとの大意を抱いて生れ出た織田信長公が、その粗暴な気質も平手政秀の切腹に依って一回転を見せて、近隣をうち従へるに及んで殺伐たる陣中にあって気分を休めさすために風流気が生じ、清洲城内に京都から招いた古田織部正重勝の手で極めて数寄を凝して出かし上げたのが此の茶席である。信長は此の名づけに苦労をした。彼が新しい茶席を検分した時、その目に付いたのが床柱の節だ。「ほう」と声を出した彼は近習を反り見て「この節は藤吉郎の頬そっくりだ、そうだ以後猿面茶席と呼べ」と彼は近頃奇策を以て彼の愛を独占している「猿」こと木下藤吉郎を連想して言った。それから後の信長は秀吉を愛するごとくに、この茶席を大切にしたものだ。家康の手で清洲城が名古屋に移されると、同時にこの茶席も城内に移され、春風秋雨三百年の後、明治十一年に瀬戸の陶師、刑部陶痴に対し徳川家から下げられたので、陶痴はこれを同年十二月もとの清洲に移した後、今の測候所のある末森城跡に移し、更に愛知県博物館が建設されると同時に県に寄付されたのが、先般商品陳列所の取りこはしと同時に鶴舞公園に移され、ここに始めて本邦三茶席の一つとして安住を得る事になったのである。

堂々とした威容の愛知県陳列博物館、そのなかにある日本を代表する茶席。その茶席にあやかり陳列博物館の横の道を猿面横町と呼んだ。

地図


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