起点から安栄寺まで
上街道は尾張藩が参勤交代の際、中山道に出るためつくられた 五街道並みの規格でつくられた官道。 名古屋城の東大手門から犬山の楽田を経て中山道伏見宿にいたる 十里八町(約40km)の道のり、犬山の楽田までは、稲置街道と重複し木曽街道とも呼ばれた。
起点の名古屋城の東大手門から西に進み清水口の交差点を左折して国道41号を200mほど北上し国道から右に分岐する。
名鉄瀬戸線の高架下をくぐり350mほど進むと清水弘法があり、そこを過ぎた西側200m弱に解脱寺がある。
明暦3年(1657)、犬山城主が建てた薬師堂・小庵が始まり。招かれた竹夭(ちくよう)和尚は、竹葉軒長虹と名のる俳人。境内に俳聖芭蕉の句碑「粟稗塚(あわひえづか)」がある。
街道に戻り北上し黒川(堀川)を渡る。350mほど進んだ左手に安栄寺の山門が見える。
安栄寺の境内には、名古屋城の鬼門除けとして、城内から大聖不動明王が奉遷されている。また、境内にある室町時代の様式をもつ六地蔵石仏は、志賀公園北東の共同墓地にあったもので、上下二段に三体ずつの地蔵菩薩坐像が浮彫にしてあり、像の右に 「尾州山田庄志賀郷」、左に「□□□□大永七年(1527)十月日」と刻まれている。
これは室町時代末期のもので、県下で最も古い紀年銘のある石仏として、昭和五十三年名古屋市有形民族文化財に指定された。
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庄内川周辺
安栄寺から北に上街道はのびている。
矢田川の300mほど手前の街道の西側にある山神社西南に安井城があった。 社伝によれば、天正年間(1573~1592)に、安井将監・浅野長勝(秀吉の妻ねねの養父)が、安井城を築く際、鬼門(東北)の守護神として勧請したといわれている。
安井城は、東西約160m、南北約150m規模で、当時としては相当な舘であったと伝えられている。現在境内には、お福稲荷社と白竜社も祀られている。
上街道を進み矢田川の南岸に慈眼山と号す天台宗の寺院成願寺がある。
天平十七年(745)僧行基の創建といわれ、安食、山田両氏の菩提寺だった。始め安食荘の壮官安食重重頼の法号にちなんで常観寺といったが再建したとき、今の寺号に改めた。寺は昭和八年(1933)の矢田川の改修に伴いこの地に移された。寺伝に行基作と 伝えられる本尊の木造十一面観世音菩薩像は、平安時代の作とされ、 市内で最も古いものの一つで市の有形文化財に指定されている。
矢田川、庄内川を渡り庄内川に沿って約600m東に進み、左に曲がり北上 枡形の南に護国院と味鋺(あじま)神社がならんでいる。
護国院は、味鏡山と号し、真言宗知山派。天平年間(729~749)僧行基の 創建といわれ、薬師寺といった。天永二年(1111)西弥(さいみ)上人が再興し、今の寺号に改めた。
本尊の薬師如来像は行基の作と伝えられている。 また、寺宝は、文化財に指定されている絹本著( けんぽんちゃくしょく)の絵画「千手観音二十八部衆(国重文)」・「尊勝種子曼荼羅図(市指定)」・ 「仏眼曼荼羅図(市指定)」をはじめ 古鏡など多くが残されてる。
味鋺神社は、「延喜式」に載る「春<日>部郡味鋺神社」にあたるとされる格式の高い神社。 江戸時代後期に編纂された「尾張名所図会」には、神社の図と共に流鏑馬(やぶさめ)などを行っていた祭の賑わいが詳しく記されている。
平安時代から始ったと伝えられる流鏑馬神事は第二次世界大戦で途絶えたが、御輿(みこし)渡御は今も祭の折に行われている。宇摩志摩遲命(うましまじのみこと)のほか六神を祀ることから六所明神 とも呼ばれた。
味鋺にある明治2年(1869)創業の「旧双葉酒造」の前をとおり春日井市へ入る。
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*記述にかんしては、名古屋市教育委員会制作の案内板を参考に記載しました。また、記述の訂正等に関しては、名古屋市北区まちづくり推進室のご協力を得て修整いたしました。